町村合併と分村運動/自治

1872年~( 旧編集委員会 1980年11月 筆 )

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【大小区制】

 明治5年(1872)に戸籍をととのえるため大小区制が定められ、古い時代から続いてきた瀬戸村附近の13ヶ村は第3大区の15小区にまとめられた(本紙第6号、8号)。この小区が新しい行政の単位で、2~3名の戸長と各村々に副戸長が2~3名おかれた。中央集権をめざすためには、中世頃からできた半自治的な「むら」は無視されたようである。庄屋、組頭は廃止された。戸長の仕事は戸籍事務だけでなく、おふれの徹底、租税、教育、徴兵のことまで行うことになり身分は官吏なみに、しかし給与は地元の村でということであったから、苦情も出たようである。明治11年(1878)末この大小区制は廃止されて、また、元の「むら」が自治体となった。

 ここで町村の監督者が必要になり郡長、郡役所が生れた。

【町村合併】

 明治17年(1884)に戸長役場区域が定められ、5町村約500戸に1つの役場をおくことになり、今村に役場がおかれ、美濃之池村、三郷村、稲葉村と今村の4ヵ村が管轄村となった。明治22年(1889)には、近代国家にふさわしい体制づくりから「市制町村制」が実施され、戸長から市町村長と変った。自治資力の乏しい町村は合併が強力に指導され、役場の管轄区域となる今村外3ヵ村は合併して八白村が生れた。旧村名は大字の名前で残すことが保証されていたので「八白村大字今村」と呼ばれていた。日露戦争後は更に合併が強化され、神社合祀、共有財産の整理等で旧村は弱体化し、39年(1906)に八白村、新居村、印場村の3村が合併し、旭村となった。こうした町村合併の結果、愛知県下665町村あったのが、264町村に減った。

【分村運動】

 大小区制の実施も町村制も合併も、共同体としての村の内部では大きくは変らないで、用水、村有財産、社寺等を中心に結ばれ、村への愛着は簡単に捨て切れなかった。

 八白村の発足に当って、24年(1891)1月役場の新築が大字の寄付金250円で着工、8月完工、同10月28日の濃尾地震で大破し、26年(1993)に修理して28年(1895)やっと開庁式。この経費は21名の地主の寄付金でまかなわれている。この時、学校問題がもち上った。郡長からの指導は1村1校だったが、旧今村と稲葉村には現に学校があったので、議員12名中8名が今村と稲葉から出ている八白村村会は2校制を決めたが、そうなると旧三郷村はおさまらない。三郷にも学校をということになる。

 もともと学校を持つだけの力のある村を一方的に合併させるからこんな問題も出てくるわけで、今村では20名の村民総代が連署して30年(1987)8月、県に「分村願」を提出、独立の資力もない貧弱村ではないことを訴え、独立を具申したが、稲葉村でも同年12月に「再三請願書」を提出しているので、今村よりも早く、回数も多く請願していたようである。県は、いずれも受取ろうとはせず、結局この分村運動は成功しなかったものの、当時、お上の方針に逆らうこの種の運動を起すのには、相当な勇気がいった筈で、この地方の人々の進歩的な自立心と強靭な郷土愛に支えられた行動力を物語っている。