古い地誌の中から今村地内の「横山」の地名を拾ってみると、
【張州府志】
松平秀雲(君山)撰、宝暦2年(1752)稿に、「今村」古は横山村と曰う。云々とある。
【張州雑志】
内藤正参編、寛政元年(1789)稿に、今村、山田庄、府内より東北行程4里、中島郡海東部に同名の邑あり、或は云此村古へ横山村と云、今民家の西方に横山地と呼ふ田圃あり云々。又、金井明神洞の条に川西田圃の中に在り、社内古此社地を横山村と称す云々とある。
【尾張国地名考】
津田正生撰、文化13年(1816)稿に、今村、同名いと多し、故に印場今村と呼、支村横山、(松平君山曰)旧名を横山といひしと也(箕浦覧屯曰)横山は今却て支村の名にのこる(正生考)印場村より東へ瀬戸までむかしは村里なし近世其間に新居と今村との2村出来たりされば旧名横山といふことも只山の名にして村名にはあるまじき意地す、とある。
【尾張徇行記】
樋口好古編、文政5年(1822)稿に、今村々勢の条に、「三州街道ノ内ニ横山ト唱フル所アリ、府志ニ今村古ハ横山村ト云由ミエタリ、サレハ今按スルニ、往昔横山村中ニ別ニ村落ヲ開基スルカ故ニ、今村ト唱ヘ来レル乎、…(中略)…又、横山ト唱フル所ハ、街道通リニアリ、ココニ中水野村ノ出屋敷モアリ」と云う。又、山田庄中水野村の条に「支邑3区アリ、横山片落稲込ト云、横山ハ南ノ方今村界ニアリ、是ハ延享元子年(1744)コゝニ家ヲ移セリ、云々」と云う。後段部分の横山は現在の名鉄新瀬戸駅(旧は横山駅)附近の東横山町の事である。
以上見て来た地誌の範囲では「昔、今村を横山村と云った」と云う事で、何時頃変更されたのか、又変更の理由も編者の推考に留まっているに過ぎない。
横山と云った地域は名鉄瀬戸線を挟んで、現在の田端町、川北町、南山町の各二丁目と平町、西山町の一部のあたりであった。
今村文書の中に明治11年地租改正の時に作成された切絵図がある。その中に小字名として「横山」の地名がある。
本紙第5号記載の三州街道、中馬街道と云われた瀬戸街道中、今村あたりでは、「横山街道」とか「殿様街道」とか、又、川西嶋に入る西のあたりを「横山驟」と呼称されていた。又その街道の北に東から西へ流れる用水があって「横山用水」と呼んでいた。