古老に聴く山巡査の話

1921年 ( 横山 典次 1979年5月 筆 )

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 私自身が、既に還暦を過ぎて3年にもなるから、昔流で言うなら老人の類に入るだろうが、我未だ壮年なりの気慨でいるのだが、如何なものでしょうか。

 私の子供の頃の話ですので、もう半世紀も前のことになるが、今の西山町根之鼻の橋の西に当る山際に、子供達が山巡査の家と呼んでいた駐在所がありました。長いサーベルを腰にした、威厳のある姿のお巡りさんが居られた記憶があったので、この事について古老を訪ねて話をききましたので、次に記してみました。

 駐在所があった根之鼻の辺りは、当時村の境界線が明確でなかった故か次の様な事がありました。

 八白村と言っていましたが、其の頃此の地点で、山林中で首つりの変死事件がありましたが、その事件の後始末をするのに、村境の両方の村で、事件の厄介事を自村の事にしたくないということで相手方にかぶせ合いをしたという事でした。そんな事があったので当時根之鼻の橋から西15間(約30m位でしょうか)の地点に、八白村36番戸矢野清左右ヱ門なる人の居宅があったが、そこを村境として取り決めた。

 山巡査が駐在したのは、大正10年(1921)前後の頃で、西山町、南山町一帯は山林で、官有林であったが、心なき住民や、他からの侵人者の不心得者による、立木の盗伐採が頻繁にあり、其の被害が相当にあったので、山巡査を配して、保安林の管理に当らせたものだ。

 当時、付近の住民は、家庭の煮炊きの燃料などとして松葉の落葉拾い(ゴーカキと呼んでいた)をしたものでした。禁制の官有林なので、主婦たちは、夜明け前まだ暗いうちに、山巡査に見つからんように、南京袋などもって、薪集めをしたものです。

 今は、ガスなどによる文化生活になりましたが、当時の住民生活の一端が伺えると思います。一般的に貧しい暮らしであったようです。

 また、山巡査なるものは、山口(当時の幡山村)の方にもあった。そちらは陶土の盗掘を防ぐ山管理のため山巡査が配されていた。

以上 お話をされたのは 伊藤憲二さん
(伊藤さん自宅にて)