家の名となっている苗字(姓)を明治初年の記録で調べたら、全村220戸中「青山」が47戸(21%)、「横山」が43戸(20%)、「伊藤」が42戸(19%)、「矢野」が40戸(18%)、「鈴木」19戸(9%)、「川島」10戸(5%)、「稲垣」9戸(4%)、「三宅」と「加藤」が各4戸で2%ずつ(%は四捨五入)という数字が出た。
要するに当時の今村は9つの苗字の家で成り立っていたことがわかった。地域的な分布をみると、寺山嶋は青山と横山。市場嶋は伊藤、鈴木、川島、稲垣、三宅。北脇嶋は矢野と加藤。川西嶋は青山、横山、伊藤、矢野、鈴木で占められていたことがわかった。
江戸時代、武士は苗宇帯刀の特権をもっていたが、庶民は苗字を名乗ることはできなかった。が、それでも、中には苗字を有する者もいるにはいた。
明治3年(1870)9月、政府は「今後は平民も苗字を許されることに相成った」旨、布告を出した。そこで一般庶民はこの際、苗字を届けるべく村の有力者に頼んだり任せたりしたが、中には苗字を名乗ることによって租税負担が増すのではないかと勘ぐって名乗らない者も沢山いたので、業をにやした政府は、明治8年(1875)、「今後は必ず苗字をつけなければいけない。苗字がわからない者は新たにつけよ」との布告を発した。
学者の調査によれば、日本の姓の数は幕末に約3万程度であったものが約3倍以上に増大したという。今までなかった新しい苗字が続々と登場したわけである。
明治新政府は全国の戸数、人口などを明確にするため明治4年(1871)戸籍法を制定し、従来の身分別調査では脱漏も出るからと屋敷番号順に調べるように戸籍区を制定(今村は第3大区の第15小区となった=本紙6号2頁)し、明治5年(1872)2月を期して施行、国民一人一人の姓名、住所、生年月日、生死の別、年令等の他、族称、犯罪歴までも詳記した全国的戸籍簿づくりを行った。完了したのは明治6年であるが明治5年(1872)壬申(みずのえさる)2月現在で行ったため、これを壬申(じんしん)戸籍といい我国最初の全国戸籍として知られている。これが後に租税や徴兵、学制に大きく役立った。
明治初期、町村制施行以前に、従来の庄屋、組頭等の村役人を廃し、町村に戸長を置いて町村の行政事務をつかさどらせたが、この戸籍づくりはその戸長、副戸長等の吏員によって行われた。
このように戸籍が整うにしたがって苗字は家名という程になってきた。もともと、ここでいう家とは先祖代々伝えつがれて来た血族集団=旧民法で戸主の支配権で統率された戸主と家族の共同体=である。そこで、本家と分家は苗字が同じであること、同姓同名の場合は改名すること、などのきまりもできた。