市民参刊でコミュニティづくりの実験/自治

1965年~( 旧編集委員会 1980年11月 筆 )

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【回覧文書】

 效範西部地域は30年前は100戸たらずの、川西という部落だったが、区画整理が行われ、都市化が進むにつれてふくれあがり、昭和40年(1965)頃には效範町、田端町、川西町の3つの自治会にわかれていた。その頃、3自治会長名で次のような文書が回覧された。「3町共有の集会場(20坪で、日露戦役記念にできた弘法堂)が、区画整理の換地のため移転しなければならなくなったので、種々協議の結果、次のように取計らうことになりましたのでご了承下さるようお願い申し上げます。第1、弘法さんはお天王さんの敷地内に鉄筋ブロック造り6坪を新築移転する、費用は移転補償費を充当する。第2、集会場敷地約42坪は区画整理完成記念事業として平町公園内に集会場を目的とした記念館を建設するための地元負担財源として保留しておく」という内容である。

【地域課題】】

 昭和46年(1971)には旧川西部落は8町に分れていて、8名の自治会長は、7月27日公民館で開かれた「市長を囲む懇談会」の席上、先記回覧の第2項と、平町公園が野球場として使われている問題をとりあげ「平町公園は市営野球場ができるまでという約束で野球場にしているが、もう本来の公園に戻してもらいたい」との発言に市長は「お話の通りですが、何といっても手近な所に用地がないので今暫くこのままで……」と答えた。平素、自治会長は1年の任期中を慣習的な仕事に終始して過ぎてしまうので、こうした地域の課題と取り組む組織を作ろうと話し合い、翌年2月「效範西部環境整備協議会」という、関係自治会の協力組織を発足させた。

 以来、協議会の集会や町内ごとの集会を開き、平町公園を整備して近隣公園にしてもらい、公園内施設に集会所を加えてもらうことにしようという案をまとめ、印刷物を2度全戸配布する一方、陳情書案を作り、これも全戸配布してから署名運動を起し、2077名の署名を得、連区自治協議会、民生委員協議会、環境整備協議会の3者代表が市長・市議会議長にその署名簿をそえて陳情書を提出した。

【モデルコミュニティ地区】】

 陳情書の第1項平町公園の整備は48、49年度事業で完了したが、第2項集会施設の建設は一向に進まなかった。この時、県の施策に「コミュニティ振興要領」というのがあって、モデルコミュニティ地区指定になると2年間に2千万円限度の補助があることがわかったので、市へ、效範西部地区が指定されるよう取り計ってほしいと頼みこんだのが48年(1973)7月であった。

 この間、地元では県担当課の指導をうけて準備を進め、49年(1974)6月定例市議会で地元選出の塚原・田口両議員が取りあげられたことから、市でも積極的に準備されることになり、50年度に愛知県指定となった。このモデルコミュニティのモデルとは模範という意味でなく、新しい街づくりの実験をするという意味に受取って「歩きながら考える」を合言葉にスタートした。