今村文書の「新築前の分、学校所入費帳」{明治六年(一九七三)五月}という書類に、
一、 琉球三○枚 四円六三銭
二、 学校所取繕用釘、手間代 二円五○銭
三、 板五間床張り代 一円七五銭
と、ある。合計八円八八銭。これが仮教室を作った費用と思われるものであるが、前頁の沿革簿「三」の設立は明治六年(一九七三)五月五日、「四」の新築は明治九年(一九七六)三月二二日と記されていて、「三」から「四」の間の三ヶ年は、どこに学校があったのか今まで不明であったが、その答も沿革簿に出ている。「一」の但書に、「但明治九年(一九七六)三月同村六三番屋敷慶昌院より移転」というわけだ。
当時のお寺は唯一の公共施設であったからこれは理解できる。又、別の文書に、当時の慶昌院住職、一三世巌耕雲和尚は明治九年(一九七六)一〇月「権訓導に補せられた」とある。
当初は寺子屋の師匠や土地の有識者が教師に採用されていたが、明治九年六月以後、教師の資格や俸給が定められ、訓導、権訓導、授業生(一等~四等)の職名ができたと、愛知県教育史は伝えている。
なお、慶昌院には三人の徒弟がいたが、第一弟子の「市辺正学」という人の名が「效範小学校百年のあゆみ」の歴代校長欄の最初に出ている。(明治三三年以前は、校長という呼称はなく、首席教師といっていた