明治のはじめ、政治の中心は東京に移って学校計画も東京を中心に進められていたが、こちらでも、尾張藩が名古屋藩になり、更に名古屋県から愛知県へと変っていく動きの中で、学校計画は一貫して着実に進められていた。
名古屋県時代、明治4年(1871)9月に義校の設立がよびかけられた。
【義校】
小学校の前身をなす簡易な初等学校。一般住民の協力により、主として寄付金により設立。明治4年(1871)名古屋に創設され、明治5~6年頃愛知県、岐阜県で多数設立、後に小学校となる。(広辞苑)
愛知県と改まった明治5年(1872)5月には「学問のさとし」が公布され、県内各地に義校が設けられるようになり、名古屋では第1義校から第35義校まで開設、春日井郡では5年(1872)4月に高蔵寺村ほか6ヶ村で、また、沓掛村でも開設されるなど、明治6年(1873)には県下で400校を数えるに至った。
先に「広辞苑」からも引用した「義校」というのは、寺小屋や私塾のような個人経営と異なり、新しい時代の要請を先取りして町や村の有力者が協力し、一般庶民の子弟の学ぶ謝礼のいらない教育施設として1村1校の義校を設けよう、というのがそのはじまりであった。
こうした動きのうちに、明治5年(1872)8月、政府は学制を公布、県ではこの「義校」を学制の小学校に代るものとして公認し、普及発達を図った。
愛知県が学制に基いて学区を定め小学校の設立に着手したのは明治6年(1873)5月からで、県下を8中学区にわけ、人口600人に1校の割合で600校を計画したが、結局、年末までに650校に及んだ。
今村では、「第3番中学区内58番小学校效範学校」という校名で明治6年(1873)5月9日開設の記録を見つけた。
県の学校づくりは、中学区に「学区取締」という役人、その補助機関に「学校幹事」、村には学校幹事試補、学校係等の小学校世話方をおいて学校の管理に当らせた。
記録によれば、青山佐左エ門さんは学校幹事試補、伊藤磯七さんは学校係であった。
明治10年(1877)8月、愛知県は県下各小学校の沿革を調査したが、その調査書が現在、愛知県図書館の郷土室に保管されている。「明治10年(1877)小学校沿革簿」と表書きのあるこの文書は、今村文書学校関係分を理解する上に大いに役立ったので、ここに今村学校分の全文をご紹介しておく。
【明治10年(1877)小学校沿革簿】
第145番小学今村学校
一、位置 第3区春日井郡今村2348番地
民有地 面積414坪 地税2円20銭7厘
但明治9年3月同村63番屋敷慶昌院ヨリ移転
二、連区 今村220戸
三、設立 明治6年5月9日
四、新築 明治9年3月22日
五、夜学 明治7年4月15日設
六、校名 明治9年7月8日 效範学校ヲ今村学校ト改ム
七、教員 訓導1名、訓導試補1名ノ処今ハ3等授業生1名
八、学費 明治6年5月ヨリ同8年12月マデ賦課、
同9年1月ヨリ年賦寄附金ヲモッテ支払イ