校舎の新築は效範が一番/教育

1875年~( 旧編集委員会 1980年7月 筆 )

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 愛知県教育史によると、学制が施行されても直ちに新築とはいかず、寺や民家等の借用が多く明治20年(1887)頃までは新築の機運も盛り上ってこなかったようであるが、今村の場合は非常に速いテンポで進められていたことが、今村文書の中の次の資料から判る。

(1) 学校普請日記帳 明・8
(2) 開校御祝儀受納帳 明・9
(3) 学校頼母子人銘帳 明・8
(4) 学校新築清算書 明・16

 (1)の日記帳の最初に、金百円也旧水野陣屋(代官) 壱棟、西小門並に便所」とあり、「1月7日 コポチ初め 大工1人、日雇方5人、外に手伝い8人、世話役11人、人足98人、夜番人足2人」などと1月10日まで記録されている。7日から10日まで4日間の人足を集計すると、今村から261人(80%)、狩宿村から15人(4.6)、井田村から19人(5.9)、瀬戸川村20人(6.2)、美濃之池村8人(2.5)、計322名となっている。

 取りこわしから運搬・移築工事については金銭の出納関係の記録から読みとれる。

 棟上げは明治8年(1875)9月25日から27日の間に行われたようで、祝儀代、マキ銭色紙共、等の費用が記してある。

 唆工披露は翌9年(1876)3月22日に行われ、酒8升、祝儀1円74銭と記載してある。

 (4)の精算書から拾うと、

1、支出合計 382円69銭
内訳 家購入 100円00
土地代 15円00
材料代 98円34銭
人件費 117円71銭
その他 51円64銭
2、充当収入金合計 382円58銭
内訳 頼母子金 245円42銭
建築残材処分 9円76銭
雑収入8件 127円40銭

 建築費の寄付金が頼母子講という仕組みで集っている。

 故青山政五郎氏の話では耕雲和尚は経済にも通じていて、頼母子講を広めたというが、(3)の人銘帳には明治8年(1875)12月にまとめた222名の人名と金額が記されているが、(4)の精算書の日付が明治16年(1883)とはなれているのがちょっと気になる所である。 ともかく、新築は大変な事業であった。11人の世話役は費用を立替えたり多額の寄付金(頼母子金の6割)を出したり、村人たちへ協力をよびかけるための寄り合いに奔走もされたことだろう。

 建設位置は、今村2348番地、敷地414坪は、地籍図から城屋敷の青山円七さんの所有地であって、後に15円で買収したものであることがわかった。現在の平町三丁目2~5番地に当る。

 やがて、狩宿学校の開設で效範学校は今村学校と改称、八白村の成立と共に八白尋常小学校、旭村と合併して旭第二尋常小学校と、次々に名前を変えながら現在の平町一丁目(本紙4号参照)へ移転、大正14年(1925)瀬戸町への合併を機に歴史ある最初の校名效範を名乗って效範尋常小学校となった。

 現在地への移転は昭和5年(1930)で、当時は北脇2438番地といったが、昭和18年(1943)の町名設定で效範町という町名が生れ、效範町一丁目1番地ということになった。