学校費は住民負担/教育

1872年~( 旧編集委員会 1980年7月 筆 )

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 明治5年(1872)の学制は、学校を「人々自らその身を立て其産を治め其業を盛んにするもとで」という考え方から受益者負担の形をとり授業料をとることを原則とし、小学生1人月額50銭。但し納付困難な者は半額でもよいとしたが、東春日井郡史によれば実際に徴収していたのは、38校中僅か4校で、授業料収入が学校費として不足の場合は連区がこれを負担する仕組であった。

 明治6年(1873)の学校所入費帳によれば、9月から12月までの教員2名の月給16円、仮教室設置費8円80銭、時計、書籍、筆墨紙など支出合計は68円69銭。この財源は、御下り金26円29銭、寄付金24円19銭を合わせても、尚18円11銭不足するため、前頁沿革簿「八」のように、連区内各村へ高割×戸数割で計算し、次のように賦課した。

今村 210戸 10円48銭7厘
美濃之池村 29戸 1円39銭7厘
狩宿村 58戸 2円19銭9厘
瀬戸川村 42戸 1円70銭6厘
井田村 56戸 2円32銭1厘

合計 395戸 18円11銭也

 このように住民に負担をおわせる一方で,子女たちの就学を促進することが大きな課題になっていた。

 明治7年(1874)の第2中学区内平均値にみる就学率は38%、しかも男女別の格差は大きく、男子就学率55%に対し,女子は19%しかなかった。

 明治12年(1879)、学制を廃して教育令が公布され、町村が小学校設置単位となり、町村費で設置する学校を「公立」と呼ぶようになった。

 やがて、明治33年になると「市町村立小学校国庫補助法」が公布され、小学校は原則として授業料を徴収しないことになったが、尾張旭市誌によれば八白村尋常小学校時代に月額3銭の授業料を徴収したことがあったという。