泥水と産業/瀬戸川の今昔

1933年~( 旧編集委員会 1979年11月 筆 )

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 昔の瀬戸川はきれいな水が豊富に流れ、魚も沢山住んでいて、子供たちは深みで泳いだり瀬で魚をとったり砂原に甲羅を干したりしてこの上もない達び場にしていたのだが、いつの頃からか、この川が白く濁りはじめた。上流地方の産業廃水のためである。やがて魚が死ぬどころか、陶土そのもののような泥水と化し、瀬戸の陶磁器産業発展のバロメーターとまでいわれるようになったが、この川の水を利用している農民にとってはたまったものではない。農民たちは死活問題だとばかり、声を大にして訴えはじめた。

 そこで昭和8年(1933)3月、瀬戸市役所に、珪砂組合長、瀬戸市長、品野町長(以上甲)、效範連区自治連合会長、旭村長、守山町長、猪高村長(以上乙)の面々が集り、瀬戸川汚水問題について一つの契約を交わした。それは、瀬戸川の汚水に代る水源として組合が12,800円を支出して瀬戸市役所前の南岸に井戸を掘る、というのである。

 井戸は出来た。今も当時の施設は残っている。そして契約の第4条に、「本契約を締結した後において乙は甲に対し将来泥水の被害による抗議を申込み、または損害賠償の要求をなさざるものとす」とあったが、やはり、それだけではおさまらず、この問題は昭和25年(1950)に再燃し、度々会合が開かれた末、31年(1956)旭町で開かれた会合で、今度は瀬戸川が矢田川に合流したすぐ下流の旭町稲葉地内にもう1つ井戸を掘ることで一応の解決をみた。この時の会合は県、瀬戸市、旭町が主体で、その工事費の分担は県が40%、346,000円、珪砂組合38.4%、332,500円、瀬戸市11.6%、100,000円、旭町10%、86,500円となっている。

 泥水問題はそれでもまだ尾を引き、農家代表と業界の話合いで、昭和34年(1959)、35年(1960)と、田植期間の1週間、業界は一斉休業を行って水を汚さないように努めた。

 しかしその後、業界に対する法律の規制が行われ、処理施設も整備されるようになって、問題はようやく自然解決の方向へと向っていくことになったのである。

2005年:新大橋付近の瀬戸川