【郡農会史】
郡史というのは、郡役所廃止の記念事業として、県下各郡とも大正末期にできているが、農会史は東春日井郡だけのようだ。明治・大正の地域農業史として貴重なものである。
この郡農会史の中に、政府の農事改良と、その普及を推進する組織として県や郡でも、「農談会」が開かれ、東春日井郡では主唱者鈴本勇右エ門、青山円七等11名によって明治16年(1883)4月に開かれた、とある。その後、農談会は「農会」に発展した。明治33年(1900)4月には農会法によって、「八白村農会」が円七さんの発起で設立認可になった。
【農事改良委員】
県は各郡から精農家を農事改良委員に嘱託して、各町村に改良委員を置き、この人たちを通して村内一般の農事改良をめざした。
今村文書に、明治24年(1891)11月24日に行われた改良委員選挙に関する文書がある。これを見ると、今村を37組に分け、各組から代表1名が投票した、その37枚の投票紙が残っているが、2名連記で投票者の名も記入してある。
投票の形式は定まっていないようで、「米改良人」と肩書したものが6票、「米拵改良委員」と記したのが3票あった。なお、結果の集計もあって、19名の名が上っており、最高点は川南で稲垣儀兵衛、川の北で青山鎌太郎がとっている。
【米穀検査】
明治19年(1886)、米俵の作り方の改良を図るため、県知事は「米質及び俵拵改良組合規約案」を作り、農家に対し、農民の手で自主的な米穀検査を行うよう呼びかけた。明治32年(1899)には、□1俵は必ず4斗2升入れる。□俵は二重にする。□俵の仕立方は内俵3ヶ所、外俵は5ヶ所しばること、等の達示を出した。
45年になると、更に厳しい米穀検査規則が制定され、町村1名の検査員が嘱託されることになった。この最初の検査員は、瀬戸町では中島尚さん、旭村では加藤金次郎さんであった。その昔、尾張藩時代は、「お蔵米」として代官所の検査が厳しく、1俵5斗5升である所へ、3~5合は多く入れた上に、品質もよいというので、「水野米」「小牧米」「尾張米」等と呼ばれ、取引されていたものだが、地租改正で税は金納となり米は自由販売となったため、1俵の中味も4斗2升あり4斗4升ありとまちまちになってしまったので、このような「米検」が復活したものと推察される。