農業と副業/暮しと生業

1874年~( 旧編集委員会 1980年10月 筆 )

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【農業】

 明治7年(1874)の今村文書によると、戸数は215戸、人口は938人だった。そして、その家業は「農業兼宿屋渡世」が1軒(176番屋敷青山利左ェ門)、農業兼物貨取扱所1軒(165番屋敷鈴木利兵衛)の他は全部農業となっている(戸長調)。その後、年と共に副業を持つ家も、その業種も多くなっている筈だが詳細はわからない。いずれにしても米・麦生産だけでなく、利潤の多い仕事にとり組んできたことであろう。

【養蚕】

 明治政府は生糸生産に力を入れていたので、県でも明治10年(1877)から名古屋の東主税町に県立養蚕伝習所を作り修業期間3ヶ月、生徒50名でリーダー養成をはじめる一方、一般農家に対しても養蚕技術の向上を目ざして養蚕組合をつくるよう指導した。

 明治21年(1888)の養蚕戸数は、八白村21戸、赤津村20戸、水野村233戸で、郡内では小牧の340戸につぐ数字となっている。(郡農会史)

 明治30年(1897)発行の「尾参宝鑑」第18章 工業の項に、(1)名称 青稲社、(2)生糸製造、(3)所在地 八白村、(4)持主 青山円七、(5)明治27年(1984)5月創業、(6)職工 男1、女11、という記載があり、今村にも製糸工場があったことをはっきり示している。

【葉煙草耕作】

 明治29年(1896)葉煙草専売法が公布されるまでタバコは都市周辺などで自由に栽培されていた。三郷の秋田喜左エ門さんは葉煙草を買集めてキザミ煙草を作り元売りしていたという。日清戦争後、軍備拡張のため国費の増収源として煙草が専売になり、守山、旭、長久手、日進、猪高の各村は専売局名古屋収納所の管下に入った。栽培技術の指導や製品収納の円滑化を計って耕作組合を作ることになっていたため、大正14年(1925)今村、美濃之池が瀬戸町と合併後、瀬戸町煙草耕作組合の事務所が役場内におかれ、岩田助役が組合長をしていた。

【青物市場】

 瀬戸に青物市場ができたのは明治44年(1911)のことである。加藤杢左エ門さんらによって瀬戸駅の西、一段低い所に「瀬戸市場株式会社」として発足した。

 周辺の村々の農家は、商品としての野菜・果物等を市場へ運んでおけば「せり売り」で買ってもらえるようになったので、早朝、大八車に青果物と空の肥樽を積んで出発、市場の広場に商品を下しておいてからお得意の家をまわって下肥の汲取りをして、帰りに市場へ立寄って売上金をもらってくる、という具合になったため、その頃から精農家はきそって商品野菜を作るようになった。しかし、それでも市場の方では商品が足りず、遠く枇杷島市場から馬車、電車、後には自動車等で商品を運びこんでいた。