瀬戸電の歴史

1905年~( 青山隆弘 1979年7月 筆 )

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 今、名古屋の都心まで20数分で行けるセトデン。そもそもの始まりは明治38年(1905)3月、瀬戸~矢田間14.6Kmの単線開通でした。

 当初はセルポレー式蒸気原動車というフランス製35人乗り、コ-クスを焚きチャカボコチャカボコ蒸気で走り、チャカボコと愛称されたという本邦唯一の珍車。

 これが又お粗末で、矢田まで調子がよくて90分、一つ間違えれば途中でエンコして3時間、4時間もかかってやっとでご到着なんてザラでした。会社は瀬戸自動鉄道といって大曾根に本社を置き瀬戸矢田間の運賃は24銭でした。明けて39年(1906)には大曾根まで路線延長したものの時間はアテにならん。音は矢釜しいとあって評判が悪く往生した会社は社名を瀬戸電気鉄道と改め、明治40年10月17日34人乗りチンチン電車第1号を走らせました。そして明治44年(1911)には土居下まで、その年の秋には堀川まで全線開通しました。

 この堀川というのにはちゃんとワケがあって、瀬戸の陶器を堀川まで電車で運び名港までは船で運ぶ。そこから世界の七つの海へ、という雄大な計画路線だったがやがて堀川は材木と汚水の川と化し船便も通らなくなったため、何でこんな所が終点なんだと首をかしげる破目になったものでした。

 昭和7年(1932)の駅名を見ると、尾張瀬戸・追分・尾張横山・今村・根之鼻・三郷・平池・旭新居・聾石・印場・霞ヶ丘・大森・喜多山・小幡原・小幡・笠寺道・瓢箪山・聯隊前・守山口・矢田・大曾根・駅前・森下・坂下・社宮祠・尼ヶ坂・清水・土居下・東大手・久屋・大津町・本町・堀川と33駅ありました。昭和10年(1935)頃の瀬戸~堀川間の6ヶ月定期がたった57円98銭といいますからウソみたいな話です。昭和11年(1936)、ロマンスシート100人乗りガソリンカーが美人車掌を乗せて登場し大評判となりましたが、ガソリン禁止令でまもなくパー。

 そうこうするうち昭和14年(1939)9月1日、瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となり、駅も徐々に間引きされスピード化の基盤も整えられて昨年8月20日栄乗入れが実現する運びとなったわけでした。かくて、全国鉄道ファンに知られた″お堀り電車″の栄光は幻と消え、代って冷房付きの快速電車がセトデン70余年の歴史を脱いで登場し、新しい時代に即した沿線住民の足を引き受けることになったという次第です。