天保12年(1841)に尾張藩の布令で各村から庄屋が書いて提出した村絵図が、尾張藩庁から東京の徳川林政研究所に引き継がれ保管されていることが判ったのでやがて刊行される本には現物の写真を掲載することができると思うが、道を調べる出発点として、先ず、そういう古絵図がある、ということだけここに紹介しておく。 その絵図はタテ45センチ横約60センチ程のもので、「春日井郡今村絵図面」として、今村庄屋磯七の他に円七、佐左エ門といった名が記されており、天保12年(1841)の年号も入っている。
絵図はかなり正確なもので、瀬戸川と支流、用水路、溜池、周囲の山、村境、神社寺院、耕地の分布、集落、道などを色分けして、ていねいに描いてある。
瀬戸川の北側に1本の往還が東西にのびている。村と村をつないだ道である。この往還から、志段味村道、上水野村道、瀬戸村道、美濃池村道、狩宿村道などが書かれている。当時の往還は、現平町公園南の市道を東へ、今春商店前→北脇の效範郵便局前→孫田、汗干、今池と進んで市役所北門のあたりから二股にわかれ、左(東北方向)へ陣屋蹟から品野を経て明智→岩村へと至る「信州道」、右へ瀬戸村を経て三河小原村方面へのびる「三州小原道」とに分岐する。これがいわゆる「追分」である。
一方、平町公園から西へ進む道は区画整理で大きく変わって昔の名残をとどめていないが、今の川北町共和鉄工あたりから西北にカーブして現市道新居線につながる。昔は根ノ鼻の松林と急な坂がよく知られていた。尾張旭市北原山まで、道筋だけは残っている。その先は更に印場、大森、矢田川を渡って大曽根村へと通じていた。この街道、後に瀬戸街道と呼ばれるようになったが、「尾張徇行記」(1822)では瀬戸街道という言葉は一ヶ所も使われておらず、小幡村、大森村、印場村のところに「信州飯田街道筋」といういう言葉で詳しく紹介されている