今から350年余り前、信州伊那谷の農民たちは、農閑期を利用して飯田や松本の城下町の商人の荷物を自分の馬や牛の背に積んで運搬し、駄賃をもらってくらしの助けにすることをはじめた。業績が次第に伸びると、1人の馬子が3・4頭の馬をひき、1匹の馬に28貫から30貫(100~130kg)の荷をつけ、組を作って街道をかよった。1日の行程が8里(32km)位であったといわれるが、この信州山間部の馬の背による運搬業者のことを「中馬」と呼んだ。
中馬の特徴の第一は、荷物を積み替えることなく、産地から目的地まで直送するという点であり、これを「通し馬」又は「付通し」ともいった。荷物の損傷が少なく、また運賃も安かったので、「岡船」ともいわれて商人達に盛んに利用された。馬の代りに牛を使った場合も中馬といった。牛は山道に強く、食物を反芻したので、餌の面でも便利であった。
これらの中馬が信州から尾張、三河に下る道を三河地方では「飯田街道」と呼び、信州の人々はこれを「三州街道」と呼んでいたようだが、この道は中馬の往還であった所から、「中馬街道」と呼ばれるようになったものである。
さて、この中馬、商品流通が盛んになるにつれて仲間も増え、飯田へは1日に馬1000頭入って1000頭出るといわれ、中馬街道筋 678ヶ村、馬数18000頭余にも及んだので、当然のことながら尾張、三河地方にも大きな影響をもたらすことになった。このような流通の拡大で、三河の農民の間にも馬稼ぎをはじめるものが増え、本場の中馬との間に争いが起きて、文政3年(1820)遂に幕府が仲裁に入り、三州馬の頭数や参加する村を制限してしまった。さあこうなると今度は輸送力が不足することになり、短距離や中継ぎ専門の、朝出て夕刻に帰る日戻りの馬稼ぎが各地にあらわれるようになる。