中馬も通った今村の道/街道の今昔

1841年 ( 旧編集委員会 1980年1月 筆 )

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 飯田街道の根羽から岩村→明智→品野を経て今村を通り、新居、大森から名古屋へ通ずる旧瀬戸街道はいわゆる本街道の飯田街道ではないが飯田へ通ずる主要支線の一つであったので「飯田道」とよぶこともあったらしく、事実、荷物の都合などで中馬が通うことも確かにあった。そこでこの道筋が中馬街道と呼ばれることもあったようだ。戦後、郷士史の研究が進み、古文書も発見されて、そういったことが明らかになり、例えば土岐市史(昭和46)、尾張旭市誌(同)、北設楽郡史(昭和45)、日本の塩道(富岡儀八著 昭和53)などにも記載されているし、文化庁篇の「中馬の習俗」(P24)の中馬の路線図にもはっきり記されている。

 「尾張徇行記」下品野の項に

「先年ヨリ馬継所ニナリ信洲アタリヨリ来レル荷物ヲ名古屋ヘツケ送レリ……」中品野の所では「薪問屋アリ……瀬戸物焼ノ薪、センバモ売出セリ、マタ信州、濃州ヨリ往来ノ馬宿ヲスル……」 上品野では「岩村領水上村、細野アタリヨリ白炭、鍛冶屋炭ヲツケダシオキ、印場村、大森村アタリノ者買イニ来リテソレヲ名古屋へツケオクレリ、当村ニテモ馬持ツルモノハ駄賃ヅケシテ渡世ノ助ケトセリ」

 とある。そして瀬戸村を見ると

「近村ニテハ陶器駄賃著ヲ以テ生産ノ助ケトス、今村、菱野、本地、新居、印場、小幡、大永寺、大森垣外アタリヨリノ村人 駄賃著ニ来レリ 中ニモ今村、小幡ヨリ多ク来レルト」

 記して、今村にも結構駄賃馬がいたことを示している。

 尾張旭市誌によれば、水野代官所は天保12年(1841)「上品野市馬駄賃馬新古馬子荷物附方出入の件」について 今村、本地村、美濃之池村、菱野村、狩宿村、井田村、瀬戸川村、稲葉村、新居村、印場村、大森村、小幡村、猪子石原村の13ケ村の馬子総代と、かかり合いの者および庄屋の出頭を命じたこと、その後始末のことを郷土史料の印場村文書によって明らかにしている。

 なお、「市馬」について「馬子自らが商人であるか、または、販売を委託されたところからつけられたものであろう。いずれにせよ市馬は、塩や林産物の生産地、または問屋と、交易場所である品野とを往復する馬稼ぎである」と説明されている。