「徇行記」で樋口好古は今村をこう書き記している。
「コノ村ハ瀬戸川ヲハサンデ農家アリ、4区ニ分ル。寺山、市場、北脇、川西ナリ。寺山、市場ハ瀬戸川ノ南ニアリ、コレ本郷ナリ」
寺山と市場は、今村で最初に開けた土地であったことがこれでわかる。氏神様もお寺も川南にあるのは当然の話である。
一方、川の北には信州と尾張を結ぶ街道が通っていた。
街道筋では通行人の便宜を図るために休み所が出来る。茶店、煮売屋、馬宿や旅人宿、問屋、かじ屋もそうめん屋も呉服屋も風呂屋も床屋も、いつのまにか自然に出来て一つの町を形成する。根羽、柿野、足助、新城などはこのようにして生れ、中馬の中継ぎ地として、或いは、旅人の宿駅として繁盛した町である。品野もその一つである。
瀬戸街道には二つの難所が有った。一つは矢田川を渡ること、もう一つは根の鼻の急坂をこえること。名古屋から来て根ノ鼻の坂をこえると今村の川西嶋である。いつとはなし、ここにいろいろな店が生まれた。古老の話やその家に伝わる口伝で明らかになったものに、例えば、広さんの菓子卸商、和右エ門さんの宿屋「しげりや」、勝重さんの馬宿、利兵衛さんの問屋、藤太郎さんの宿「坂本屋」、柳左エ門さんの煮売屋、などがこの街道筋にあった。農業のかたわら街道で商いをする家が増えて、この道筋を今村の中で特に「街道嶋」と呼ぶようになったという。
今村に街道島を生んだ中馬も、明治維新後、馬子を社員とする中牛馬会社を設立したが交通機関の発達で明治18年(1885)を頂点に下降線を辿り遂に姿を消した。それもその筈、大正の末にはトラックも出現する時代となる。荷馬車とトラックのトラブルが起る、馬車屋がトラックに転業する人も出る。
当時のトラックは、フォード、シボレーといった外車で、1トン車が1,000円~1,200円だったそうだ。
この地方では名古屋へ陶磁器を運びあげ、石炭を積んでくるというのが8割をしめたという。
そのトラック便もやがて瀬戸電が走るようになって主役の座を明け渡すことになるのだが……。