せとものの道/街道の今昔

1876年 ( 旧編集委員会 1980年1月 筆 )

<back

 私たちのこの今村を東西に貫く街道が飯田街道(今の国道153号線)の脇道として信州と名古屋を結ぶ重要路線であることはこれまでの調べでよく分かった。

 信州飯田街道沿いの村々の農民が、生活安定のために品野、赤津、瀬戸へと入って来て、陶器をどんどん送り出した。今村の馬方も、品野村、赤津村、瀬戸村で焼かれる陶器を尾張公の城下町へと運んだことだろう。

 街道といっても、今、私たちのイメージにある道路とは程遠い、けものみちに毛の生えたようなものだったのであろう。そんな道を、天秤棒で肩にかついで、或いは馬の背にくくりつけて、せとものが西へ東へと送り出されていった。

 いつしかこの街道が、もはや中馬街道でもなく飯田みちでもなく、もっぱらセト街道と呼ばれるようになったのはごく自然のなりゆきであったに違いない。

 沿道の村人の生活を潤し、日本中の人々の暮らしの中へ「せともの」を送りつづけた1本の道、瀬戸街道も、明治9年(1876)の大政官布告によって改修が進められ、やがて大八車が出現し、馬車も通れるようになって、農家の副業としてはじまった運送は次第に専業化していく。当時は1往復1日がかりであったため宿屋や茶屋もでき、いろいろな商家が並ぶようになって、川西嶋が「街道嶋」と呼ばれるようになるのである。