瀬戸街道が、せとものの道として重要性をもってくると、沿道はにぎやかになってきた。昔、本郷だった、川の南の市場、寺山の地域をふまえて瀬戸の将来をも考え合わせて瀬戸町との合併、そして道路の整備を話し合っていた時、大正14年(1925)の水害となった、復旧を兼ね、耕地整理事業がはじまった。
幅員8間(約15m)の道路が新設された。当時、八間道路というのは画期的なもので、人々を驚かせた。が、この八間道路の両端は古い道で、十分なはたらきをしなかったので、真ん中だけが使われ、生活道路でしかなかったから、一時は悪評が高かった。
昭和14年(1939)頃から、隣りの旭町で、県道、名古屋・瀬戸線の改修のための土地買収がはじまり、12年末には共栄橋が改築され、18年末に名古屋・瀬戸線の路線変更が行われ、共栄橋~八間道路が県道となった。31年(1956)4月から、県道、主要地方道名古屋瀬戸線と改称され、今日になった。