用水と農民/瀬戸川の今昔

1670年 ( 旧編集委員会 1979年11月 筆 )

<back

 寛文年間(約300年前)に尾張藩で作られた、最も古い村勢一覧ともいうべき「寛文村々覚書」によれば、今村には、川に杭を打ち石を並べて水をせきとめ取水する「井瀬木」が、大井、中ノ井、八反田井、をちノ井の4ヶ所あった。

今村の雨池

 又、雨水を溜めるいわゆる「雨池」に鴨ヶ池、同所上池、しょうじヶ池(通称しょうじがね)の3つがあり、これらの用水で水田34町9段8畝3歩を耕したという。ちなみに当時の今村は戸数30戸、人口258名、馬27頭であった。この数字はいろいろなことを考えさせる。例えば平均1戸当りの水田面積は1町1反余、1戸当りの家族数は8.6名という計算になる。

 なお、覚書には「公儀人足」・「公儀より修覆」のことばもあるところから、用水、溜池の維持改修は大変なことなので農民の要望に応えて藩費が支出されたことがうかがえる。

 長い年月の積み重ねで用水は数も増え、整備され、守られてきたが都市化が進むにつれて農地はなくなり池や用水路は無用の長物の如くに考えられ埋めたてられる破目になり、最盛期には10数ヶ所もあった溜池が今では赤池ただ1ヶ所を残すのみとなっている。