大きく変ったし尿の今昔

1894年~( 市場町 鈴木藤一 1979年9月 筆 )

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 農家に下肥は、なくてはならぬものであった。昔といっても昭和30年(1955)頃までは、普通に見ることができた農家の便所は、家の外にあって大小の二つに分れていた。出物の受け器も大きく、溜ると汲出して、屋敷か畑の片隅につくってある可成り大きな貯蔵溜に移し、腐るのを待って使う。大の方は主に基肥に、小の方は追肥用としてうすめて使った。麦は下肥でとれるといわれていた。農家が商品作物をつくるようになってからは、下肥の需要が多くなり、明治の中頃には、大八車に肥樽をのせて町へ出掛けたものだった。農家が町の人に渡す代金はまちまちだった。

 都市は下肥の大生産地となった。商品価値をもってきた下肥のねだんを調べ、きめてほしいの声に応えて、興農会(正しくは東部興農共同義会という)が、明治27年(1894)2月に設立された。瀬戸町を囲んで、北は水野、高蔵寺、坂下まで、西は旭、守山、志段味、南は幡山、長久手、日進、保見の各村々の農家2000余の会員があった。

 代会長は今村の青山円七さんだった。

 事務所は北脇町の現在の水野建具店のところにあった。

 興農会が調定した不浄(下肥)の価格は、1ヶ年1人金50銭の定額とする。日雇・出稼者は1人35銭。尚、日雇雇入れの方は1人15銭と定められ、若し従来の不浄代金より高額になる場合は減額請求する。1人というのは満15才以上の者とする。不浄代金は6ヶ月分を前払いする等々の外、10数ヶ条が定められていた。

 がしかし大正時代になると農家の下肥を使うことが少くなる。瀬戸町の人口は益々増加したので、調定は崩れ出し、大正15年(1926)には興農会は解消してしまった。

 不浄は無価値となったが、永い間の縁から汲取りは続いた向もあり、時々の農作物等の付け届けが例となった。無償汲取りとなって戦中、戦後の食糧難時代が過ぎ、26年(1951)頃には、農家では科学肥料が更に普及したので、下肥の使用は少くなり、汲取りに出掛けることが次第に減ったので、町ではし尿の処分に困るようになった。こんな事情から汲取り専門業が生れ29年(1954)頃に「瀬戸衛生社」等の開業となった。オート三輪車に木製箱タンクを乗せて汲取りに廻り旭村、長久手、日進の村々に運んで農家に使ってもらうことになった。がこれも永続きしなかった。困って廃坑に捨てたこともあった。瀬戸市では、35年(1960)度に赤津にし尿処理場をつくり処用が出来るようにした。当時市民は汲取り料として、肥樽1本につき35円位、直接業者に支払った。

 29年(1954)に清掃法が制定され、市でも条例ができて、汲取業者を許可制にした。46年(1971)になると法律の大改正があり(廃棄物の処理及び清掃に関する法律という)、市町村に原則として、し尿処理業務が義務づけられることになった。

 市では汲取り運搬業務は委託方法を選び、処理場は直営で行われることになった。この頃から水洗便所が普及しはじめた。現在、市の委託業者は、愛知衛生社、尾東衛生社、品野衛生社の3社である。汲取り料は市条例で定められ、現在は一般家庭は定額制で、世帯月額150円、人頭割1人月額192円となっている。したがって、2人家族だと534円に