堤防の水神さま/瀬戸川の今昔

1767年~( 旧編集委員会 1979年11月 筆 )

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map_水神石造物

 效範橋の東、北側堤防(路)上に川に向って2基の水神石造物がある。角柱に屋根のある方の横側に「明和四丁亥年 鈴木利兵衛」と刻まれている。建立の年と施主の名であろう。鈴木利兵衛は今村文書によれば庄屋とある。

 愛知県災害誌と尾張徇行記にはこの明和4年(1767)に豪雨禍があったことを記している。7月10日から12日にかけて尾張・三河に大雨、赤津や猿投山に山津波があり山口村の民家はその時から山麓へ引移った。本地村で500石、菱野村で400石が砂入地となり、水野川の氾濫で「コトゴトク家漂流ソノ後新田へ移ル」(下水野)矢田川猪子石で堤防決潰、庄内川氾濫で死者2000余人etc……

 この記録から推してわが今村、美濃池村は幸い水難を逃れたが、他村の被害を伝え聞き、今後も平穏でと祈る村民の心が水神を祀ることになったものであろうか。 又、右側の野石の方は明治31年(1956)4月と彫ってある。平町2丁目加藤つぎさん{明治20年(1887)生}の話では、北脇嶋の水車場(共栄プ-ル附近、矢野源太郎所有地)を作る時、水難除災祈願のため南側堤防に祀られたがその後水車もなくなったので、今の所へ一緒に祀られたのだろうとのことであった。