動力のル-ツ「村の水車」/瀬戸川の今昔

1907年 ( 旧編集委員会 1979年11月 筆 )

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 米麦の精白や製粉は臼や杵を使って人力で行われていたが、川の水が用水路に豊かに流れるようになって水車場が作られ、そこで精白ができるようになったことは、村の生活の中に動力が入った最初ではないだろうか。

 今、60代以上の人で水車小屋を覚えている人はいても、いつ、どこに、どのようにして作られていたかとなると、いま一つ、はっきりしない。それがありがたいことに、寺山町の青山舜一さんから「薮下水車場新設手続筆記。青山舜太郎 横山米吉 合誌」という文書を見せて頂くことができた。

 記録は明治40年(1907)11月~41年1月の3ヶ月間の水車場建設のあゆみが綴られている。

詳細は後日刊行の本にゆずるとして、皆さんの記憶を辿って頂くヒントにもなればと考え、箇条書きで主な所を抜すいしてみることにする。

  1. 用水を利用することだから場所の選定に苦労した。地主や耕作者の同意が必要で個人よりも共有用としてつくられた。
  2. 工事は石工、大工の専門職だけを頼みあとは自分達でやった「工事人夫賃金1日35銭とし成るべく出資の口数に応じて出る」と記されている。
  3. 工事費300円、之を合資組織とし1口金額5円となっている。
  4. 当時は旭村大字今の時代で、区長、評議員の自治組織が確立していたので建設者が区長に出願し、評議員会の実地調査があって着工という手続きがとられた。

 尚、この記録で薮下水車場(舜太郎裏の所)よりも中北水車場の方が先に出来ていたこと、八反田水車(現川西町土城園の前東県道部分の所)も計画されていたことと、平蔵水車(字原山、現西寺山町と共栄7丁目の界附近)は2回も適地として候補地になったが狩宿との関係で一旦中止され、その後できたこと等がわかる。

 多くの方々の話を総合すると、今村地区に8~9ヶ所の水車場があったようで、地域の人々が共同で利用するものと米屋専用のものとがあった。大正の終りには電力による精白製粉が始まり、水車は姿を消していく運命になった。