川をはさんで生れた今村には、いつも川の南と北との関係があった。昔は、水の流れている所だけ厚い板を渡して橋にしていた。
詳細はやがて刊行する本で述べるが、明治40年(1907)の義務教育延長により増改築が必要になった。学校を移転することになり、その候補地問題で50数回に及ぶ協議の結果現在の平町1丁目伊藤内科附近に決定された折、川の南と北で意見が真向から対立した。
川南は、通学に川越えしなくてはならぬこと、学区即ち三郷、美濃池、今村の中央は川南地域になるから候補地は川南にすべきだと主張するのに対し、川北は、昔は川南が今村の本郷だったため神社もお寺もある。学校までとは虫がよすぎる、学校は従来通り川の北におくべきだと譲らず、区長稲垣善六さんは「委員会で実地調査の上決定した位置は動かせない。川南の意見の根本は川越え通学をする児童の安全を心配してのこと故、学校建築に先立って先ず橋をかける」と約束して解決した。
この橋が今村橋で、はじめて手すりのついた土橋ができたのであり、通学だけでなく南北の交通に大いに役立ち昭和40年(1965)頃まで健在だったが今は跡形もない。