住まいの今昔/家

1874年~( 旧編集委員会 1980年1月 筆 )

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 昔の住まい、とりわけその地方の農家はどんな家だったのか、明治7年(1874)頃の文章を資料にさぐってみよう。

1.屋敷の広さ

 屋敷の広さ(宅地面積)は1戸当り111坪(367平方米)になる。明治16年(1883)の愛知県の平均が120坪内外だったから、農家ばかりだった今村としては広い方ではなかったようだ。

当時、今村の戸数は220戸で、みんな「持ち家」ではあったが、宅地だけは借地という家が34戸(15%)あった。

2.建物

 建物は全戸が本造萱葺平家建だったが、瓦葺きの土蔵などのある家も29戸あった。又、1戸当りの平均建坪は22坪(75平米)という数字が出た。

 構造は南向きの四八造りで、お戸口を入ると「庭」という土間があり、奥にくど(かまど)があり、中程に砧があったりする。この土間は農具置場、ワラ打ち縄ないなどの作業場、炊事場を兼ねる。

 入口の左が「だあどこ」(台所)で居間に当る。昔、宮中では作った料理を台盤に並べておいて順に次の食事部屋へ運んだ。この台盤のある所が台盤所で、これを語源として生れた台所は食事を用意する部屋の意だが、当地方では食事部屋の前の部屋という位置関係から台所の言葉が使われていた。

 台所の次の、食事の部屋はお勝手というが流しは戸外にあり煮焚きはにわで行うので、ここは食堂。台所の左奥をでえ(でい)といい、主人の部屋、客間の意で、床の間、仏間、神棚をまつる座敷。

 お勝手の左奥がなんど(納戸)、おおえともいい長持箪笥などの家具什器類を入れる。お戸口の右は厩、或は居室の場合もある。なや(納屋)は、ほそやともいい、漬物槽、塩がめ、せいろう、お膳などを収納する物置である。l戸当り平均建坪は江戸時代にさかのぼると5~10坪くらいだったようで、その時代には身分的差別があって庶民は門、玄関、床の間などは作れなかったが、明治初年のおふれでこの差別は撤廃された。

3.建坪と敷地

 建坪に対し敷地が広いのは、農作業場としての前庭に屋根が付けられ、コナシ部屋という仕事場や、ハンヤ(農具や穀類を入れたり、肥料用の灰が雨に当って有効成分が流失するのを防ぐために入れておく、いわば物置小舎)などもできたのであろう。

4.人口増加に伴う変化

 町の人口増加に伴って個人で家を持てない人のため、町には安い家賃の長屋や、もう少し程度の高い1戸建の貸家(借家)、そして、第一次世界大戦後には、いわゆる文化住宅もできはじめた。材料も杉や桧に代って米松(べいまつ)などの輸入材も使われるようになり、障子に代ってガラスまどやドアー、椅子にテーブルといった洋式もとり入れられてきた。

 第二次大戦後は戦災焼失による住宅不足に資材不足も重なって、深刻な住宅難が大きな政治課題のひとつとなったわけである。