今村文書には社寺関係の資料24点があり、お寺よりも神社関係の記録が多い。
天照大神への尊崇を中心とする我固有の民間信仰が、仏教・儒教等の外来思想に影響され理論化されて「神道」が成立していく過程の中でごく自然の成行きから、神仏習合という姿が、本地垂逍と共に現れたのは平安時代のことで、長い間、寺の住職が神社の管理を兼務するという形のとられてきた所が多く、今村の場合も慶昌院の住職が別当職としてお宮の守をしていた。前項にもあるように慶昌院の起りはいわば八王子社の神宮寺であり、その唯一の遺構として、明治の初期まで八王子社の東隣りに薬師堂がたっていた。幕末の慶応3年(1967)3月の神仏分離令の公布、4月の達示で明治維新への準備がなされ、明治初年、維新政府の祭政一致の方針で神仏習合は廃止となり、明治4年(1871)、八王子社は慶昌院から直接村の管理へと移管され、薬師堂は明治11年慶昌院へ遷座、その跡地は八王子社の神域となった。
八王子社郷倉にはこの頃の経緯を物語るいくつかの資料が保存されていたのである。
「村社据置願」という文書綴りと「社寺現境内取調帳」をみると当時{明治10年(1877)}八王子社は村社で、他に無格社の東山神社、諏訪社、市杵島姫社の3社が市場町に、金井社、西山神社、斉宮司社の3社が川西町と平町1丁目にあり、地租改正の折に官有地となったが、神仏分離令と共に神社整理の方針がとられ1村1社に合祀するよう達示が出た。そこで、部落民の信抑の中心を失っては一大事とばかり6社それぞれに祭神・由緒・維持管理状況等を記し、氏子総代、用掛、神官が連署し第3区副戸長の添書もとって県令(後の知事)宛 に、何とか残させて下さいと神社据置願を出した所「聞き届け難く候」と朱書して返されれたもの等綴じてあるが、西山神社だけは「書面聞届候事」とある。境内地950坪、社殿3尺×3尺で6社中最も大きかったためだろうか、村では他の5社につき再願を、諏訪社については総代稲垣善六、稲垣兼四郎、青山円七さんらにより再三、願を出したが許されず、明治39年(1906)4月と8月の勅令で合祀が更に推進され、結局、明治43年(1910)3月29日に合併願を出し、同年5月19日許可、これをうけて、6月1日に村社八王子社へ6社とも合祀し、6月9日付で、「合祀御届」を提出して、「一件落着」となったいきさつが読み取れる。