墓地の変遷/社寺と墓地

明治初年~( 今旧編集委員会 1980年5月 筆 )

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 明治のはじめに第3大区第15小区東春日井郡今村の戸長から提出された「墓地取調書」の控が今村文書の中にある。恐らく地租改正にからむ調査の控えであろうが、これによると、

1.福井墓地(現南山町一丁目)

 現反別2反1畝12歩。これは現在の通り墓地として据え置きたい。

2.上の山墓地(お寺の上の山)

 現反別2反8畝14歩。これも「1」同様据え置きたい。

3.寺墓地(現境内墓地の一部)

 これは尾張藩時代の上納山じょうのうやまで当時墓地であって、古い石塔が今も並んでいるからこのまま墓地にしておきたい。

 と、記されている。この3ヶ所は、明治初年の地籍図にも墓地と明記されているが「3」の寺墓地の所は山林と同じ緑色に塗られている。

 この古木に囲まれ陽も当らぬ林の中の墓石は苔に覆われていたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で杉の大木の多くが倒れてしまい、古い墓石は何100年ぶりかで白日のもとにさらされることになった。

 昔は土葬だったから、故人の遺体は人里離れた所に深く埋め、その上に盛土をして墳墓としたが、これを理葬のための墓、即ち「埋め墓」とし、墓参の便宜のために、別に霊を迎え、お詣りのための墓、つまり「参り墓」を作っておく、いわゆる両墓制というのが本州中央部に多く見られるが、この参り墓の多くはその場所を寺の境内に求め、埋め墓の盛土に対し、こちらは石塔を建てて墓標とした。

 前述の「3」寺墓地というのは、この両墓制の「参り墓」ではないかと思われるが、どうだろうか。

 はじめ各家が2つの墓を持っていたのが、次第に用地が得られなくなり、1ヶ所にして埋葬地点を少しずつずらしていき、その上に墓標を立ててお参りもする「単墓制」へと移行していったのではないか。各家の墓地の持分は1坪くらいだったようである。そして、川南の集落は上の山墓地を、川の北の集落は福井墓地を使っていたが、昭和に入って吉田墓地(現保健所あたり)が新しくできた。

 太古以来長く続いた土葬はしだいに火葬にとってかわり、昭和24年(1949)4月1日からは、土葬は完全に姿を消すことになった。

 この頃から庶民の墓も次第に立派なものになり、周りに柵をめぐらしたり、コンクリートで境界を区切ったりした墓地にピカピカに磨いた石碑が建てられたりするようになったが、総体的に墓参の頻度は少くなってきたようである。