前号に書かれた西部区画整理事業が昭和34年(1959)からはじまると、地内にある福井墓地の取扱いを考えねばならなくなった。先進地の視察にも出かけたりして、将来の墓地のあり方をさぐった結果を青写真にまとめて、川西・北脇の島寄り合いが開かれたが、すんなりとは運ばなかった。最初の青写真は墓地を整理して中央に慶昌院の分院を新築し、その周囲を墓地として環境を整えようというものだった。この計画案は、川西の市議や寺山の嶋に伝わり、また寺総代会の課題にもなって、地区内に墓地委員会が組織され住民は墓地と取り組んだ。やがて墓地というより納骨堂の新築が中心になったが、年輩者は、どうしても墓をなくすることは賛成できないという反対意見で、3ヶ所の墓地は廃止して1戸1碑、1平方米の1区画で新墓地をつくる。納骨堂も新築する案が最終案として実行に移され、今見る慶昌院境内墓地に1600基、納骨堂には2300余の納骨室が2階に設けられ、1階は葬祭場に利用する広間がつくられた。永平寺管首の銘名で白雲堂と呼ばれるようになった。
なお、3ヶ所の墓地にあった石碑は1戸1基を新墓に移すことになったので、移すことのできない墓石3000余基を集めて「万霊塔」をつくり供養した。
この仕事は確かに大事業だった。これを推進された人々の苦労は、紙面の都合で割愛し、本の方で伝えることにしたいと思う。
瀬戸市の市街化区域の一画に、緑あふれる環境づくりと、社寺境内の整備の基をつくった先人と先輩に今さらながら感謝の念を禁じ得ない。