社寺の維持管理/社寺と墓地

1883年~( 今旧編集委員会 1980年5月 筆 )

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 古い時代、神社には神田、寺には寺田(神領・寺領)が与えられていて、そこから社殿や堂塔の造営、修理等の費用を生みだすようになっていた。そして、どちらかといえば社領よリ寺領の方が重んじられていたようである。しかも、その上に寺には祠堂金しどうきんといわれる寄付があった他、死者の冥福を祈るために、寺には金銭や田畑が寄進されることもあった。

 こうした、長い歴史をもつ寺社領の取扱いは明治の維新政府にとって大きな課題の一つとなったが、明治16年(1883)頃までにはどうやら片付いた。その結果、先号にも記したように、寺社領は境内地を調べた上であいまいな土地は官有地として召し上げられてしまった。

 慶応3年の神仏分離令は神社と仏寺との間に争いを誘発し,廃仏毀釈まで引き起したが、神社の方は国や県市町村の保護が得られるようになって、その立場は大きく変化した。このような時代の流れの中にあって、今村には社寺相互のトラブルもなく苦難をのりこえることが出来た。それというのも、八王子社も慶昌院も共に、松原広長公の創建になるものであり、慶昌院は檀家をもっていた。そしてその檀家たるや八王子社の氏子でもあり広長公の徳の及ぶ家々で占められていたからであろう。今村文書の中に「旭村大字今区規則=大正4年(1912)1月1日より施行=」というのがある。全文106ヶ条から成っているが、そのうちで社寺に関する条文は25ヶ条もあって最も大きな率をなしており、今村びとの信仰心の厚さを物語っている。それを見ると、

  • 氏子、檀方総代は共に4名ずつで、任期は氏子総代が5年、檀方総代は3年、何れも区の組織から推せんで選出される。
  • 社寺共に重要事項に関しては、区長と計りこれが実施をなす。となっていて、全く同等に扱っていることがわかる。

 もう一つ、大正13年(1924)7月の記録に、社寺屋根替小麦萱徴収名簿というのがある。 時の区長は青山嘉左エ門さんで区評議員会により、小麦萱は1戸当り4貫目、現金なら40銭を徴収することが定められ、集った結果が戸別に記入されている。これを集計してみると、 寺山嶋58戸、市場嶋46戸、追分嶋71戸、北脇嶋38戸、川西嶋70戸、合計283戸という数字になった。

 また、戦後の農地改革(前号に記載)では、社寺共に大きな損害をうけたが、特に慶昌院の方が大きかった。祠堂金として寄進された田畑があって、いわば「地主寺院」だったが、自作農をつくることが目的の改革であるから、それらは否応なく買収される破目になったのである。

 瀬戸市農地委員会が取扱った4町3反余歩のなかで、慶昌院の分が35筆、2町1反8畝余歩もあって、全市の社寺関係買収地のほぼ半分を占めている。これに対し八王子神社地は1件、8畝19歩であった。こうした措置の結果、一般的に寺院は経営難となり、いわゆる「兼業住職」が生れてきた。例えば教師になる、保育園を経営する、或は寺を観光資源として公開する、等の類である。

 昭和26年(1951)には宗教法人法が公布され、八王子神社も慶昌院も宗教法人となった。県内の連合団体ではそれぞれに準則による規則を設けているが、慶昌院では35年(1960)10月、総代会により更に群しい「慶昌院運営規定」が作られ、檀信徒はすべて護持会員となり一定の会費を負担することなどを決めているし、八王子神社の方は46年に奉賛会が組織され、その運営に当っているのが現在の姿である。