地租改正で 所有権明らかに/土地百年

1873年~( 旧編集委員会 1980年3月 筆 )

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 江戸時代の日本は総人口は8割が農民で、武士と僧侶が1割だったという。新しい明治政府は、お金がなくては身動きも出来ぬ、と税収源としての土地の扱い方を考えた。租税が従来のように米の物納では不安定だから、これを金納にするため、まず1筆毎に地価をきめ、所有者は地価の100分の3を税として納めることとし、明治6年(1873)7月から実施にとりかかった。

 従来、土地は誰が所有者かはっきりしない部分が多く、年貢は村の連帯責任で納めていたのを、新しく個人責任とするために、まず耕地や宅地については百姓に所有権を認め、不明確な所は百姓内部の協議で決めさせ、土地の所有を明らかにする「地券」が所有者に対し交付されることになった。

 従来租税負担は各藩まちまちで(例えば尾張は軽く、三河は重い)同じ藩内でも不公平があった程だが、政府としてはこれまでの収入を減らしてはならない。まさに地租改正は有史以来の大事業だったが、長い年月かけて実施に移すような余裕もない。そこで政府は、明治9年(1876)末完了を目標に、地祖改正事務局をおき、権力を以て強引に推進をはかったのである。

 これによって土地の所有権は明らかになったものの、そのかげで税の重さに泣いた百姓衆も多かったことだろう。