今村も参加した地租改正反対運動/土地百年

1874年~( 旧編集委員会 1980年3月 筆 )

<back

 廃藩置県で生れたばかりの名古屋県は、6つの大区と90の小区にわけられ、従来あった水野代官所は廃止された。当地方は第3大区の第15小区といい、小幡村、猪子石原村、森孝新田、大森村、印場村、新居村、稲葉村、瀬戸川村、井田村、狩宿村、今村、美濃之池村、瀬戸村の13ヶ村からなり、戸長(官選)は、小幡村の大島嘉蔵、上水野村の加藤邦太郎で、各村に副戸長(民選)があり、明治7年(1874)頃の今村文書には稲垣善六、青山佐左ェ門、矢野孫左エ門の名がみえる。

さて、地価の査定は形式的には村や郡で地価銓評議員を選出して、各村の順位をきめ収穫を査定する筈で、前記大島氏と今村の佐左エ門氏は春日井郡銓評議員に選ばれ、林金兵衛氏が議長になったが、春日井郡地租係局長荒木利定氏は改正事務遂行のため全体の平均反当り見込収量を天下り的に示し、承諾しなければ「取縄ヲ以テ是ニテクリリ上ゲ急度処分致スべク」とおどして押しつけたため春日井郡東部では新租が旧租の5割以上高くなる村が3分の1以上もあったため、承諾書提出を拒否して改正反対運動の口火を切り、県下の反対運動の先達として県と交渉、明治11年(1878)5月、中央の地租改正事務局へ嘆願書を提出する時には、一旦県に屈した村々もまきこんで参加村は43ヶ村に及んでいた。第15小区では猪子石原と森孝新田と今村の3ヶ村が加わり、明治11年(1878)9月、巡幸中の天皇に直訴を企てたが林議長に制止され、同11月24日、各村から200余名が塩、米等必需品を車に積んで東京をめざしたが浜松署に止められ、引返した。口伝によれば、今村からも「桶藤」さんら5名程が参加したといわれている。

 翌12年(1879)2月、旧藩主徳川慶勝公は旧領内の実情に心を痛め旧臣を林総代と会見させ、救済資金5万円を貸与し、内1万5干円を銀行に預け、残金3万5千円を救済金にあてさせ、銀行の利息を返済金に充当させるといううまい方法で急場を救い、将来の更訂を約束したため、明治9年秋の「鎌止」(収穫禁止)以来、寄合いや神仏祈願やら陳情やらに追われて生活苦が一層ひどくなっていた村民たちもやっとおさまった。

 春日井郡下43ヶ村以外の106ヶ村とても異議がないわけではなく、県官の説諭に不平を呑んで承諾させられたのだから、12年(1879)6月徳川慶勝公に前同様の恩恵を賜りたいと嘆願したがいれられず、県や中央の本局へも陳情したが、結局「14年(1881)に必ず改訂する」の約束をとりつけて漸く納まった。