瀬戸土地改良区 第二工区の回想/土地百年

1956年 ( 旧編集委員会 1980年3月 筆 )

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 神川町稲垣悟さんの、みだしのような題名の手記を拝見させて頂くことができたので、ここにその一部分を転載してご紹介します。

 昭和31年(1956)頃、今村地区(寺山・市場)で土地区画整理法により区画整理をやり、小学校敷地を捻出しようという声が高まって、横山健一さんが世話人代表になられ、年末に「今村で区画整理を行うので神川地区の人々で今村地区に土地を持っている人々に話して、同意を取ってもらえないか」と、同意書を置いていかれた。

 私は、稲垣鈴一さん、伊藤兼一さんに伝えました。鈴一さんは、「区画整理を行うことはよいが、学校敷地を出すことには反対だ。」という意見を出されたので、同調はむつかしいなと思った。

 その後、鈴一さんは自分の反対で区画整理が出来なかった、といわれるのはいやだから、県庁に出向いて、指導をうけて考えられた結果、土地区画整理法によるよりも、土地改良法の方が、農地の整理には有利であるとの結論を出された。

 32年(1957)2月頃から数回、神川地区の人々と相談して、神川町、美濃池町、城ケ根町の畑地を、土地改良法で整理することに話がまとまった。それで、市農務課に協力を求めて、今村、本地、神川の3地区合同の研究協議会が開かれた。

 はじめは三者三様であったが、農務課の助言で、土地改良法による整理に合意が得られ、33年(1958)に瀬戸土地改良区が、第1工区~第7工区に分けて実施することになった。第1工区が長根地区、第2工区が神川地区である。

=以下略

(このあと、事業の経過などが詳しく記録されていますが紙面の都合で割愛させて 頂き、やがて出版される本に全文をのせきせて頂きたいと予定しています。)