土地に関しての大きな改革だったいわゆる農地改革は、政府、占領軍、民衆の力関係でジグザグの経過をたどりながら第1次昭和20年(1945)、第2次21年(1946)、第3次23年(1948)と段階的に進められていった。
瀬戸市での農地改革は赤津地域と今村・美濃之池地区で行われたが、この仕事を行ったのは、民衆の中から選挙で選ばれた「農地委員」である。第1回の農地委員選挙は昭和21年(1946)末に行われ、当地区からは青山円次郎、青山鉾三郎、青山亮、加藤岩三郎、稲垣竹三郎の5名が無投票で当選、赤津地区から同様にして当選した5名と合せて10名で「農地委員会」が構成された。また、第2回目の選挙は24年(1949)8月に行われ、この地区から伊藤吉春、稲垣茂寿、谷口一郎、青山仲次郎、稲垣竹三郎(再選)の5名がやはり無投票当選した。
当時の委員中唯一人の生存者だった仲次郎さんもつい先月地界されたので、遂に生存者は一人もいなくなってしまった。
委員会の仕事はすべて規則に基いて進められ、事務は遠山虔治さん他3、4名で行われたが、その議事録の中の一部を紹介しよう。
昭和22年(1947)6月6日市公会堂にて農地委員会開催、欠席者なし。
- 主務課長田中具一氏から売渡計画を定めた事務内容について説明あり
- 発言、2番委員、「……本人は、田2畝26歩のみにつき、自作農創設の目的 に適当とは認めがたい、該農地は○○○○実行組合に売渡すことが適当と思う」
- 発言、青山円次郎氏、「実行組合に売渡すとなると、その農地は誰が耕作するか問題が起るから不適当である」
- 会長中島豊三郎氏、2番の発言について各委員の意見を求められる
- 発言、稲垣竹三郎氏、「現耕作者が不適当である以上、他に適正なる買受人を選定したいから保留としたらどうか」
(保留と決定) - 案件中、この1件を除き他は原案通り可決………
委員会は、このような議事録の写しを、委員会で作成した買・売それぞれの計画書に添えて、市町村委員会長から県農地委員会長青柳秀夫知事に提出して承認を申請し、承認があってから実行した。
なお、市で計画書ができると、10日間の縦覧期間がもたれ、異議申し立ての道もひらかれていた。