横山殿様の屋敷跡

1478年 (2000年12月 今村誌保存会 筆 )

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 横山氏は古くから春日井郡横山村(瀬戸市今、横山)に住した武族で、その屋敷趾というものが名鉄旧根之鼻駅東南約半町県道の南にあって正に煙滅せんとしている。この地に建立されていたと伝える『横山仁蹟碑』なるものが慶昌院の門前現存する。その碑文に『奉献地神横山仁蹟カ□(破損のため1字不明)』、側面に『享和二辛戌年』と記されている。昔から横山殿様の跡と伝えられているものである。横山氏は家紋に三蓋松を附している。この三蓋松の紋は文政13年(1478)8月に万徳寺から寺社奉行所へ提出の文書に、松原氏の紋所について「一、紋所丸に松皮菱、裏紋に三蓋松」とある。松原氏の裏紋を許されているから、一族かさもなくば相当深い関係にあったものと思われる。

※ 郷土史学研究会発行 「風土」 S30年(1955)10月号 松原下総守広長公(2)戸田修二執筆より

 現在、『横山仁蹟碑』は、慶昌院の駐車場の直ぐ上段に持経白衣(じきょうびゃくえ)観世音菩薩石像があるが、その石像の左前方に在る台石を含めて65cm程の石碑がそれである。碑文の『奉献地神横山仁蹟□□(蹟の文字の下部からセメントで固められて読めない)』側面に『享和二辛戌年』が建てられている。

 なお、この観世音菩薩の縁日は8月17日であり、慶昌院は尾張33観音第27番札所である。

(注)
春日井郡横山村(瀬戸市今、横山)・・・現在、瀬戸市東横山町という町名は、名鉄瀬戸線の新瀬戸駅周辺の地域であるが、「瀬戸市今、横山」という地名は無いにもかかわらず、戸田修二氏が、あえて「瀬戸市今、横山」と使われたのは、名鉄瀬戸線水野駅西の旧瀬戸街道沿いの旧今村川西島の地域、瀬戸市東横山町の西を指してのことであろう。

 また、『横山仁蹟碑』が、かつて建っていたとされる所は、瀬戸市田端町1丁目に瀬戸信用金庫西支店があるが、その約60m 西の地点にあたる。

[写真]

1) 旧瀬戸街道今村川西島の常夜灯 天保14年(1843)建立

2) 今耕地整理完工記念碑 昭和40年(1960)建立

 大正14年の洪水で荒れた旧市場島、寺山島の耕地整理事業は昭和2年から始められたが、途中、日支事変、太平洋戦争(第2次世界大戦)のため工事が遅延し、完了は昭和27年になってしまった。この時、八間道路(現在の瀬戸街道の今村地区部分)もできた。

 

3) 横山仁蹟碑 享和2年(1803)建立