015 はじめに 1/広長公物語 1

1460年 ( 白水郎 1979年5月 筆 )

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 高蔵寺の駅から中央線に乗って北上し、木曾谷に入ると、雪をいたゞいて切り立った様な山が車窓に見え隠れして姿を現す。駒ヶ岳である。

 北アルプスの雄峯にはかなわぬが、それでも一般の地図には、2956メートルと書かれている。 駒ヶ岳を頂点として、長野県の中央から南に走り、岐阜県の東部恵那山(2190メートル)あたり迄を木曾山脈というのであるが中央アルプスと云った方がよく通っている様である。その中央アルプス山系は更に西南に続いて、美濃の国(岐阜県)、尾張の国及三河の国(共に愛知県)の3国の国ざかいに位置するので、その名が付けらたと思われる三国山があり、その南に猿投山が続く。山らしきものとしては最終の山として、瀬戸の東端にそびえ立っている。

 この三国山と猿投山とがくびれた処に戸越峠があって、尾張と三河をつなぐ道、人馬、車の行交の道として、昔より今に至る迄も変わる事はない。

 面白い事に春・秋の彼岸の朝6時頃に、その戸越峠より昇る朝日を見る事の出来る処がある。それはこれから述べようとする今村城の楼上から見えたと想像する。

(余談になるが私は彼岸の日の前后に歩いて日出の時間と場所を調べた事があるのでその様に想像する。)

 いづれにせよ瀬戸に住む人々は戸越峠を中心に三国山と猿投山のどちらかの山から昇るお日様を迎えて生活を続けて来た。現在も、これからも又。

 瀬戸の中でもこの朝光を一番先に受ける処が、ここ今村である。

 さて「今村」とは!! 現在の長根、效範の2学区は大正末期頃迄凡そ450~460年の間「今村」と云う名前で呼ばれていた地域である。

 長い間、受け継がれて来た今村の住民と云う意識は、效範、長根と学区を異にする現在も尚、生き続けている。「今村」と云う言葉の中には何か誇らしげなバックボーンの様なものを感じ取る事が出来る。

 この「今村」の名付親こそここに云う広長公である。正しくは松原下総守広長公と云う。

広長公は、当時三河国碧海郡今村(現在の安城市)に城を構えて住んでいた。故あって(後述)尾張国に潜在し、今から凡そ520年程昔、寛正年間(1460年頃)飽津保上邑より此地に移り、横山村を改め、「今村」と名付けたのがその始まりである。