0018 はじめに 2

1479年~( 白水郎 1979年7月 筆 )

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 現在、瀬戸市城屋敷町の一画に今村の氏神として鎮座する八王子神社がある。 尾張志に「今村にあり5男3女神を祀り天照大神素盞鳥尊を配享す社伝に文明5癸巳年(1473)9月松原下総守源広長造営すといへり、云々」とある。

 広長公が今村に居を構えたのが、寛正年間(1460-1466)であるから、城郭が出来上って、10年後に、武運の祈願と領民の氏神として、此の八王子社を勧請したものと思われる。

 今回はその城構えについて述べてみたい。戸田修二氏の記述「日本城郭全集」を参考にして城構えを見ると、八王子神社の西北一帯にあった城郭の規模は、径60間(約110メートル)郭で、周囲に巾5間(10メ-トル)の堀(南側のみ二重)を巡らしていたという。ほゞ円形の構えは、今にしてその遺構の面影もないが、出口とか、厩屋敷、お鶴屋敷、紅井戸、市場、矢の下等の呼称が残っている。

 明治11年(1878)に画かれた村地図(伊藤武男氏保存)にも、堀や土居、塚等が記入されている事からも推察出来る。

 按ずるに、戦国時代、処々に造られた云う、所謂屋敷城とか、陣城等と言う様な、堀を穿って水を張り、掘り出した士砂を盛り上げて土居とし、屋敷兼外敵を防禦する郭は、当時の領民から見れば今迄何もなかった処に立派な城構えが出来、氏神として八王子社も祭祀され、此の乱世にあって自分達を守ってくれる主がある、と云う意識で今村の領民が眺める此の城郭は、物心両面からして圧巻であった事が偲ばれる。

 これこそ松原下総守広長公の居城、今村城で、広長公の姓をとって松原城とも云った。

 現在それらしいものとしては、八王子神社の西に道路を隔てゝ藪があり、傍に僅かの凹地があるがそれ等が土居であり、堀であった。之が唯一の遺跡である。

 今から50~60年位前迄は土居も相当続いていたが、昭和初年の耕地整理の際に姿を消した。

 藪の北50~60メートル位の処に松原神社(後述)があった。

 その近く、春夏には緑の草に覆われ、冬ともれば、寒々と枯草の上に雪を載く幾星霜が過ぎ去ったのか、1つの土盛の塚があった。

 耕地整理の時にか、松左ェ門と云う人が、1振の刀をその塚の中から発見した。

 当時の人達は、刀の処置に首をかしげ、相談の挙句、この刀は由緒ありげに思われるので、八王子神社へ奉納する事が決められた。ところが、時は移り、いつの時代か盗難にあったのか、どの様になったのか、今はない。刀の行方を知る人も、知ろうとする人も今はない。