廣長公の慰霊、顕徳の外、伝説や遺跡は、瀬戸市内は勿論、近隣の豊田市、多治見市、春日井市、尾張旭市等所々にある。
中でも、瀬戸市塩草町の太子山万徳寺(真宗高田派)は山号の示す様に、東海地方に数少い、聖徳太子像を安置する古刹として有名である。
此の万徳寺は、広長公の菩提寺で、公の首塚(松原塚)がある。又広長公に関係ある、文化財的遺品の数々は、人皆周知の事である。
之等に就て詳述しなければならないが単なる列記は、一知半解の謗りをまぬがれぬので、段章を改める事にして、先を進めます。
今回は、今村城跡附近の鎮魂、顕彰の経過を述べて、前書の結びとします。
ここに一つの興趣あるエピソードを紹介したい。
安藤政二郎著「瀬戸ところどころ今昔物語」に、市会議員矢野京一氏のお母さん、わかさん(文久2年生れ)の事が記述されている。
話というのは、明治29年(1896)9月頃、城跡の辺で双頭の蛇が居るのを小三郎さん(わかさんの長男)が発見して、これぞ広長公のお使に違いないと思い、家に持ち帰って飼って居りました。それが、それからそれへと評判になり、見世物にするからと、香具師(ヤシ)が入り変り、立ち変り買いに来ました。段々植が高くなって、遂に5円で売りました。処が小三郎さんが発見した時、三宅安四郎さんの二女こうさんが、私も見ていたから仲間だというので、5円の中の1円を差し上げ、4円は城主様のことに使わねばならぬと、貯金して置いた処、利息が積って45円になった、という話。
此の45円を基にして、今村の人々の寄附も加え、大正4年(1915)11月、大正天皇御即位、御大典の記念を併せて、広長公顕彰碑は造立された。現在、八王子神社本殿の西の碑がこれである。(註1)
碑文の中で看過出来ない事は、「領民公を失う事慈母を失うが如く哀惜して息まず、文明18年(1486)9月21日相謀りて、松原神社を八王子神社西北端の城跡に建て、而して以って其の徳を頌す、明治9年(1876)4月石社を以って本社を易へ而して益尊崇の意を表す云々」と。
余談になるが、筆者の感を許されたい。碑文というものは、最大の讃詞を重ねて書かれるのが通常であるが、此の碑文に於て、文明18年(1486)というのは、広長公敗れて4年后の事で、当時は所謂乱世、群盗、夜盗の横行、収奪の中にあって、明日の生活も、命すら保証されないまま、顕界に廣長公を失った領民達の悲嘆がいかに大きかったか、広長公が今村城主として生きていたらなあ!と云う想いは、誰の心にもあったと思われる。
当時の思い出話を古老(註2)から聞いた。
当時、八王子神社の境内は、赤松の大木8本、大杉2本、栃、楠、椿等の大木数本、其の外雑木の茂った原生的な森で、東側(現在の稲荷社のあたり)は大きな竹薮であつた。 移社、建碑と同時に、市場、樋口、川西の諸社が八王子神社内に摂社として、合祀され、森は整備された。
当時は、今村挙げての盛大な祭で、献馬が出る、餅を搗く、家々では近在の親戚をよんで振舞う等々、子供達には紅白の鰻頭が配られ、小学校からオルガンを借り出して、伊藤浜吉先生作詞の歌声が高らかに響いた。
「歴史は遠き四百年、足利乱世のその昔、城を築きて我が里の、礎置きし広長公」 次に、昭和10年(1935)4月御典医矢野知久恵の末裔である矢野京一氏によって、「松原広長公城跡」の石標が造立された。(註1)
続いて、昭和44年(1969)11月、志ある人達が集い、堀の一部を池として改修し「松原下総守広長公旧蹟お堀の趾」「お鶴井戸」の2基を石に刻して残した。
「今村」名付の親、広長公の顕徳と、鎮魂の為、此の社祠が、碑が、池が……領民を思う、ヒューマニスト広長公を偲ぶ。
現在も、これから先も、今村の地域に住む者、長根、效範の連区の人々の血潮の中に通っている。
(註1)右上写真
(註2)三宅寛一、横山春一、寺山同志会諸氏の談話。