それは今思い出しても本当に不思議な出来事です。
昭和56年(1981)秋、八王子神社奉賛会(当時会長伊藤進氏)より「来年、松原殿様の没後五百年祭(1982年10月)を挙行するに当たり、慶昌院も縁が深いと思うので、おっさんも予定しておいて欲しい。」とご案内をいただきました。
その年の暮れも押し迫った山内大掃除の時のことです。旧庫裡の一偶の韋駄尊天(伽藍を火災等から養ってくださる守護神)の祀られている棚を、滅多に掃除などしないのに、その年に限り何かしら気まぐれに雑巾掛けをしたのです。
韋駄天様の周りに余りにも雑然と並べられていた、幾つかの仏像をひとつずつ手に取り、祀られるものは残し、処分出来るものは整理しすっきりさせようと確かめていくと、その中に一際挨を被った身の丈12~3cm程の、頭部は髷を結い、衣でなく裃を纏った、明らかに他の仏像と姿を異にした木像を手にしたのです。
最初すぐにはその武士像が何物か考えも及びませんでした。先に松原公五百年祭の案内を受けていなければそのまま忘れていたかも知れません。暫し掃除の手を止め、つくづく見入るうちに「ひょっとして松原公だろうか?でもまさか?もしそうだとしたら何という偶然だろう これは一大事だ!」全く独りよがりにすぎぬ想いが巡り、そのうち五百年祭の直前に尊像を発見した事が単なる偶然でなく、自分に対する啓示のように思えて釆て「これは松原公に間違いない!」と勝手に思い込んでしまいました。
直ぐに出入りの仏具屋に尊像の修復を頼みました。尊像はかなり傷みがひどく虫食いの小さな穴が無数にあり、素材の精も抜けまるで軽石の様で、力を込めて握ると砕けてしまいそうでした。正式に鑑定したわけではありませんので実物かどうかは今だに解りませんが、仏具屋曰く「素材の木は精の具合から盤てもかなり古い」ということです。一緒に松原公の戒名(事前に塩草の万徳寺ご住職にご教示いただき)を位牌に刻んでもらい、現在は位牌堂正面に奉安されてあります。
『当山開基 陽常院殿康貞玉安大居士』こと松原下総守広長公は、郷土今村史上の忘れてならぬ重要な人物であるとともに、当院にとっては開創の礎を担われた大いなる存在の殿様なのです。
平成13年10月吉日 医王山慶昌院 十九世現住 中外正康記