稲垣兼四郎翁のおもかげ

1911年 ( 北脇町 矢野宗治 1979年5月 筆 )

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  • 稲垣兼四郎翁の銅像
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 八王子神社の境内の東方に胸像がある。碑文にあるように、瀬戸信用金庫の前進、今村信用購買組合の創立者で元銅像が慶昌院境内にあったものを太平洋戦争の金属供出に応じたために往時の台座に胸像を建てたものである。

 明治44年7月信用組合の発起人として自ら組会長となり、「僅かとて貯金はのちにおくらずに積めば宝の山となるらむ」をモットーに、当時今村の日露戦役終戦後の浮華軽佻の風を戒められ率先範を示され信用組合の運営をなし経済力の強化をはかられ、「買物は明日に今日貯金」の貯金袋が各家庭にありました事など皆ご存じの通りでありますが、ここに知られざる事がらを書いて見ましょう。

 昭和5、6年の頃稲垣翁は組合長として毎日組合に朝6時出勤せられ事務所は今の共栄支店の前の建物であり、腰掛は1m角の木の台に畳をはめこみ弘法サマの台座のようになったものに座ったり掛けたりして見えた。又、茶華道の宗匠でもあり、机の引出しには茶を入れておかれ自費で来客に抹茶などふるまっておられた。全く無報酬で清廉潔白、祖先崇拝の心あつく常に宗教を信仰せられ往年はよく新開地の説教所に行かれました。自転車にリヤカ-を付けたものでよく会場まで送ったものだ。又、自転車に乗ってもらい又運悪く落したこともあった。

 翁の自作の仏教いろは歌は有名であり、「むつまじく夫婦の仲は暮せども連れてはゆけぬ一人行く旅」など私達は今でも覚えています。組合に用達しに来る人は、翁にはご苦労サマご苦労サマでございますと丁寧に頭を下げて入る人が多かった。七七の喜寿の祝には七夕と共に喜ぶ七七の句もあります。帳簿など書き直そうとすると、訂正でよい、いくらきたなくても訂正でよい。書き直せばきれいにはなるが、おまえ達の心がきたないぞと言われ、こんこんと悟された事は今でも忘れられない。

 名古屋へ出張せられても、和服にハカマをはき、長身の翁は立派であり昼食は8銭の寿司で済まされた程で節約の一端が伺われます。

 さて胸像の横に7、8mの青桐が天にそびえているが、昔の銅像の前に植えたステッキ位の苗でありましたので、当時を偲び、たゞ感慨無量である。

※ 2003年5月撮影