それは、大正4年1月頃の小雪の降る寒い夜更けのことであった。
「狐が鳴いているから起きよ」という母の声で、起きづらかったが小便を催していたので外へ出ることにした。(便所は殆んどの家が戸外にあった)「オソガイカラツレテイッテ」と、母と一緒に外に出たら、雪は止んで月が青く光っていた。「シャーシャ」「シャーシャ」と、2秒間位の間隔で鳴いて行く声がした。用をすました、「早く寝よ」といわれ、冷え切った体で床に入った。翌朝、母と原山畑にネギを取りに行った。母は「たしかこの辺を狐の奴飛んで行ったがなぁー」と言いながら、よく見ると2m位の間隔で足跡が残っていた。犬の足跡に似ていた。大きさも同じ位だった。
それから数年後の事であった。当時の若い衆は、一日の労働が終ると灯のない暗い夜道を夜あそびと呼んで、夜毎夜毎娘さんのいる家に行き雑談や農繁期には、もみすりや、土臼挽き、俵つくり等を手伝って娘さんや親の歓心をかったりしたものであった。そんな帰り道、小雨がしとしと降る春先の夜更けのことであった。高根の方の家で遊んで、長根下の西丸山の小路と寺山に帰える出合いの道まで来ると、黒松の茂った丸山の細道を、夜目にもハッキリ見える蛇の目傘をさし、流行の和服姿で白い足首のところから、チラチラと紅い腰巻きを見せ近くまで来てクルリと踵を返して寺山の方へ行くので、あの娘さんは誰だろうかと早く追いこして顔を見たいと急ぎ足で追いついたら、トタンに左の松林の中の溜池にドボンと消えた。
現在の長根小学校の西、竹本建設の下あたりをオオホノ崖と呼んでいた。こゝは砂防工事があったところで、狐の穴が山の中腹にあった。市場の伊藤万次郎さんの父親が、弘法さまの命日に(大正10年頃)子狐を3匹捕らえて持ち帰り納屋に入れておいたら親狐が毎晩やって来て戸をたゝくので、附近の人々に「タタル、タタル」と言われて気にかゝり、元の穴に返えしたと、伊藤さんは語っていた。
その頃、寺山の御嶽さまの信者で青山重吉さんという人から色々の話を聞いたが、その一つに狐の話があった。「俺がネズミを山で焼いて畑井戸に吊り下げておいた」というのである。そんな話を聞いた幾日かたって、私は畑井戸へ小鳥の水見に行って驚いた。その頃、尾先白左衛門と言う古狐がいた。
その狐の哀れな末路の姿が浮いていたからであった。
語り手 市場町 伊藤 万次郎、地域 西寺山町