明治6年(1873)1月に徴兵令が公布された。戸籍の上で20才に達した男子に徴兵検査を行い、合格者を以て軍隊を組織しようというものだが、当初は免役規則が設けられていて次のようなものは軍隊に取らないことになっていた。
- 身長5尺1寸(154.5センチ)末満の者、身体上欠陥のある者
- 刑罰をうけた者
- 宮庁に職のある者、その将来を約束されるエリート
- 代人料として270円を納める者
- 戸主、長男、養子、兄弟が軍隊に在役中の者、など。
民間ではこの免役規則を逆用した「徴兵のがれ」ということも行われていて、陸軍は人員不足に悩み、明治12年には免役の範囲を縮め、16年には全面改正を行って、(4)の代人料制度を廃止、かわりに1年志願兵の制度ができた。
また、この年、藩士から志願した者を除隊したので、すべて徴兵令による兵隊ばかりになった。
更に、22年には徴兵令が根本的に改正され、その大体は昭和2年の「兵役法」へと引きつがれ、昭和20年まで続いていたのである。
名古屋に、名古屋鎮台ができて徴兵が行われたのは明治7年からで、この新しい軍隊に今村から入隊した人で「善十次男、横山松次郎」という人のいたことが判り、もしかしたら平町3丁目の横山静一さん宅に関係があるかも……と訪ねたら、やっぱりそうだった。その証しとして「歩兵科手牒」(後の軍隊手帳)が大切に保存されているのを拝見した。その手帳の、「入隊後の履歴」欄には、「明治7年3月6日名古屋鎮台第6連隊第1大隊ニ入営・仝9月15日二等卒拝命・8年4月近衛歩兵ニ入隊ヲ申付ラレ仝同年4月20日近衛歩兵第1連隊第1大隊第1中隊ニ編入」と記されている。そしてこの松次郎さんは明治12年3月3日免役となっている。
今村文書には、松次郎さんに続いて明治9年5月に寺山の青山桑治郎さん、10月に市場の三宅増吉さん、明治10年6月に寺山の青山喜三郎さん、北脇の川嶋九八さんと青山平六さんの3人、12年4月に川西の矢野豊蔵さんといった人たちが名古屋鎮台に入営したと記録されている。
(鎮台は明治21年5月12日、師団と改められた)