横山松次郎さんの軍隊手帳の「出戦務」欄に、「鹿児島逆徒征討トシテ明治10年2月19日第2旅団に編入、同20・21日ヨリ肥後地方ニ出張、同26日高瀬口方面ニ開戦所々転戦、薩摩日向大隅国ノ所々ニ転戦、9月24日平定ニ帰シ、10月16日凱旋」とあるから、西南の役に出征されたことがわかった。また「褒賞」欄には「11年12月30日西南ノ役ノ功ニヨリ勲8等ニ叙シ金50円下賜、明治12年3月31日御沙汰書にヨリ近衛歩兵ニシテ今般満期除隊ノ者ニ思召ヲモッテ酒肴料2円50銭下賜」等の記事がある。
日清戦役(明治27~28年)・日露戦役(37~38年)従軍者の記録は、明治45年5月建設の「戦役記念碑」の碑文に、日清戦役には9名、日露戦役には45名の名が刻まれている、大正3年乃至9年戦役従軍者の記録は、昭和6年12月建設の「戦役記念碑」に前と同じように40名の名と、支那事変従軍者22名の名も併せて刻まれている。
戦争に従事し戦死病死された人々の記録は、従軍生還者等の手で建てられた「忠魂碑」に、青山桑太郎、矢野小三郎、横山亮太郎、伊藤利三郎、矢野高吉の5名の記録が詳しく刻まれている。
この3本の碑は、慶昌院入口の信号機のある十字路の、西南角の林の中にある。 日清戦争を契機として、村民は従軍者の家族を援護する活動をはじめている。「明治28年2月、恤兵会費収納簿」でわかる。これによると、八白村長が会長となり、事務は役場吏員で、集金額は50余円となっている。恤兵会(じゅっペいかい)の組織が、このようにできたのは早い方であることもわかった。34年2月に「尚武会」と改称したが、これは、33年3月に東春日井郡尚武会が結成されたからであろう。
明治37年分の尚武会収支報告書は、つぎのとおりであった。尚武会長稲垣兼四郎