在郷軍人の分会活動/戦争

1906年 ( 旧編集委員会 1980年8月 筆 )

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 日露戦争後、陸軍は、現役の在営期間が3ヵ年を2ヵ年にちぢめ、1ヵ年は帰休兵として家に帰り、この後、在郷のまま予備役4年3ヵ月が終ると、後備役5年をつとめることになった。

 また戦時になると師団は現役在営兵と在郷の軍人を召集して編成することになったから、在郷軍人がすぐ戦場で役にたつために、在郷軍人を直接、軍の手の中にもつことが必要になった。 治43年11月3日、天長節の日に「帝国在郷軍人会」が結成された。各連隊区司令部に支部が設けられ、各町村に分会をつくることになった。瀬戸には、明治39年2月「瀬戸軍友会」という親陸団体ができていたが、この時から「帝国在郷軍人会 瀬戸分会」と改組されたようである。

 敗戦直後、各方面で「証拠いんめつ」がささやかれた。分会も例にもれず、記録等はみんな焼いてしまったので数人の人びとから聞いてまとめるしか方法がなかった。会員になることは、任意のようでも強制加入であった。「良兵即良民」というスローガンのもとで指導がなされ、分会役員は、地域社会のよきリーダーとなり、青年訓練所、青年学校、防空訓練等の指導的な役割をはたした。戦後、軍国主義団体として在郷軍人会は解散を命ぜられ、分会長以上は公職追放となった。

 在郷軍人のシンボルとして軍服と奉公袋があった。会ができた頃は、奨めても軍服を着る者は少なかった。これは、軍服を着た場合は軍人とみなされ「陸軍懲罰令」の対象になっていたことが原因ではなかろうか。それが後には、子どもの七五三の宮詣りにも流行するようになった。

 いざ鎌倉の用意に「奉公袋」があった。袋は、大正の始め頃から使われたようで、規絡も内容品も定められてきた。(1)応召用品、(2)貯金通帳、(3)私服荷造り材料等で、この袋は、神棚におくかして保管し簡閲点呼場で検査を受けたのであった。

 簡閲点呼というのは、在郷軍人の下士兵卒の1日入隊である。連隊区司令部から、各郡市ごとに定められた会場で毎年行われた。参加者は通知のあった者で、軍人勅諭の奉読訓辞・学科・実技の訓練があった。分会では、この予習を行った。

 入営や出征軍人、除隊者の見送り出迎えの行事、公葬も分会の仕事であった。古老の話では、日清戦争の時まではなかったようで、徴兵を奨励する対策として軍の要望から始まったもののようである。