今村という地名について

1473年~ ( 今村誌保存会 2000年12月 筆 )

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 瀬戸市の西部に、平成3年(1991)、広い歩道を備えた片側2車線で分離帯をもつ4車線の立派な橋が瀬戸川に架った。

この橋の名を今村橋という。現在、この橋の南北で道路の拡幅工事が行われている。やがてこの道路は大名古屋圈第3環状線として機能するようになろう。

 今村橋の北約100mに旧瀬戸街道の名残が残る狭い道路があり(旧今村川西島)、そこを越えると名鉄瀬戸線の踏み切りがある。この東150mには水野駅があり、この駅名は昭和20年(1945)頃まで今村駅と称していた。 また、今村橋の南約100mの地点で県道61号線名古屋瀬戸線、通称瀬戸街道と交差し、さらに100m南で国道 363号線、通称瀬港線(瀬戸と名古屋港を結ぶ道路)と交わる。この辺りの町名を寺山町(旧今村寺山島)といい、この寺山の「寺」というのは、東方150mにある「医王山 慶昌院」を指している。

 「今村」という地名のいわれについて述べるには、この「医王山 慶昌院」は重要な役割を持っている。

 慶昌院は、同院の古い記録に、「開創は、当村創立の節、薬師如来と八王子明神とは同時に勧請し、別当職を兼務した。草創の頃は医王山八王寺と称した。(中略) 薬師如来木像坐躰御丈壱尺壱寸八分慈恵大師彫造、右は天祿3年の御作にて当村草創より伝来す」と記されており、八王寺の本尊がこの慈恵作の薬師仏であり、医王山八王寺は、今の医王山慶昌院の前身である。

※ 郷土史学研究会発行 「風土」 S30年(1955)10月号 松原下総守広長公(2)戸田修二執筆より

 同寺の北に道路を隔てて隣接する八王子神社は、古くからの今村の村社であった。その創建は、医王山八王寺と時を同じくする。

 『張州府志』に、八王子神社の創建は「社伝に曰く、御土御門帝文明五年癸巳九月、松原下総守源広長神祠を造進す」と載せている。また、『尾張志』には、「八王子ノ社、今村にあり、5男3女神祀り、天照大神、素盞烏尊を配享す、社伝に文明5癸巳年(1473)9月松原下総守源広長造営すといえり」と記して、社殿棟札に「文明5癸巳年(1473)9月大檀那松原下総守源広長」とある。

※ 郷土史学研究会発行 「風土」 S30年(1955)10月号 松原下総守広長公(2)戸田修二執筆より

「今村」という地名の命名は、上記の松原下総守源広長であると伝えられている。

 文化13年(1816)に編集された『尾張地名考』に、「もとは横山村という。」と記し、横山文書に「昔は当村を横山村と申し、その後、中北村とも申さる。松原城主の節に、今村と改正したると申伝うなり。」と載せ、『三河国二葉之松』の碧海、加茂両郡の部に、今村、本地の名を載せている。古書の記するところ、尾張の今村、本地の地名も松原氏の改名は疑えない事実である。

また、『三河国二葉之松』の「三州古城記碧海郡の部」に、今村古城、松原吉之亟後に一学と名付け、息男を下総守という。と記し、初め松原広長の父吉之亟は碧海郡今村に住したが、後に加茂郡今村に拠り、更に尾張国春日井郡横山村に移り、今村と改名して居城を構えた。松原氏は寛正以後文明初年にかけて、今村城の築城、万徳寺本堂の建立、家臣青山、矢野、鈴木、稲垣氏らの為に医王山八王寺を建立し、横山村を廃して、松原氏先住の地名を負うて今村を創立し、城下とするまでに発展させたものと思われる。

※ 郷土史学研究会発行 「風土」 S30年(1955)10月号 松原下総守広長公(2)戸田修二執筆より
※ 文中の「横山文書」というものは現在のところ確認できていない。ご存じの方はご教示ください。