瀬戸と周辺の村

明治~ ( 旧編集委員会 1980年10月 筆 )

<back

【瀬戸】

 瀬戸は郷・洞・南新谷みなみしんがい・北新谷の4集落から発達し、周辺の町村を合わせ瀬戸市となった。今も職を求め働きにくる人々を受け入れ、発展し続けている。

 こうした一連の流れは大雑把にみて日清日露戦争後・第一次大戦後・第二次大戦後と、3回の戦後に大きく変化しているように思う。

 また、本紙3号に紹介した「し尿の今昔」に、町の人と農村とのかかわり、交流の中で、人手の世話、奉公人、丁稚、小僧、番頭、職人等々の求人、求職、或は結婚などの話が交され、農村と町の人間の移出入という現象が、町とその周辺の村をごく自然な形で一体化していく一つの大きな要素にもなっていると思われる。

【今瀬会】

 今村から瀬戸へ移住した人々の親睦団体。日清・日露戦争後、瀬戸の景気がよくなって、今村から瀬戸の町へ出稼ぎする人が多くなった。それは、第一次大戦後にはさらに増加したことが、今村文書の「今瀬会会則及び記録」大正14年分によって判る。

 当時の今瀬会員は103名で相互の連絡がしやすいように、10区に分けられ、各区に役員1名がおかれていた。会長は伊藤勝治さんであった。

 現在はもう二世、三世の時代になって今瀬会の名を知る人も少くなっているが、昭和6年、八王子神社改築にあたり、浄財を以て寄進された数々の物(例えば鳥居など)に、この「今瀬会」の名を見付けることができる。

【西部地区】

 瀬戸市は、第二次大戦後、いち早く西部に向けて大きくその発展の歩みを進めた。

この頃今村地区では、耕地整理、土地改良、区画整理等の事業が行われ、「発展のために開かれた」地域となっていき(10_行政 5)、企業の進出は激増し、市役所はじめ多くの公共施設も西部地域へ移転するなど“瀬戸市の発展は西高東低型だ″といわれるほどで、名鉄電車の横山駅も「新瀬戸」と改められる等、今や瀬戸の中心は西部へ移行した形になっている。